ちいさな夏の花火
「さんかく公園で夏祭りがあるから行こうぜ」
マンションの前にある駐車場で、プラスチックバットを振りながら友人の近本が言った。
「え、なにそれ!行きたい!」
真っ先に反応したのは駐車場の後ろの方で守っていた堀田だった。
ピッチャーの僕が放ったゴムボールは、ワンバウンドして近本の足に当たり、ゆっくりと僕の方に戻ってきた。
それは小学6年生の夏休みだった。広いスペースが少ない板橋の住宅街では、狭い道路やマンションのエントランス、そして駐車場までもが遊び場になった。メンバーが2人だろうが3人だろうが、僕たちは至るところで即席の「野球ごっこ」を始めた。
「うちのお父さんが町内会の役員やってて、さんかく公園で祭りがあるから一緒に来いって言われたんだ。俺は毎年行ってるよ。」近本が言う。
さんかく公園は近所の小さな公園だ。正しい名称は他にあったはずだが、誰も覚えていない。(何故さんかく公園と呼ばれているのかすらよくわからなかった。)
住宅街の片隅にあるさんかく公園では、目立つ場所に「ボール遊び禁止」の看板が掲げてある。子供がルールを守らずに野球をして近所の家にボールをぶつけた時は、小学校に苦情が入って全校集会が開かれたこともある。
僕たちが駐車場で野球をしていたのには、公園で好きなように遊べなかったという事情もあるのだ。
「夏祭り行ってみてえわー。金魚すくいとか出来る?」と堀田が尋ねた。
「うーん。金魚すくいは無いけど、まあ楽しいよ。」
「かき氷とか売ってる?」
「いや、売ってなかった気がする。」
「……射的は?」
「それもないかな。でも楽しいんだよ、夏祭りは。行こうぜ!」
最初は「夏祭り」という言葉の響きに目を輝かせていた堀田の表情が少し曇った気がしたが、結局僕と堀田は近本の誘いに乗った。僕たち3人は夕方にもう一度集まることを約束し、一旦解散した。
当時の夏は、昼間でも最近ほどは暑くなかった気がする。夏休みの間延びした昼下がりに、電柱に止まった蝉たちが大合唱していた。
夕方、集合時間の少し前になって、僕の家の電話が鳴った。堀田からだった。
「あ、もしもし。さっきは近本に誘われて行くって言っちゃったんだけど、なんか俺が想像してた祭りと違うっぽいからさ……。屋台とかがたくさん出てる祭りに行きたかったんだよ俺。」
うん、俺も出来れば屋台で金魚すくいをしたりかき氷を食べたりする祭りに行きたいよ、と答えた。
「だからごめん、やっぱ俺今日行かないわ。親からもあんまり帰り遅くなるなって言われてるし。楽しんできて!」
この街では、大きな夏祭りというものを見聞きしたことがない。きっと堀田と僕は、テレビドラマで主人公の青春の舞台になるような、あつらえむきの夏祭りに憧れていたのだろう。
堀田の電話を切ってから、さっきまで高揚していた気持ちが冷めていくのを感じた。
それでも僕は約束は守ろうと思って、近本と二人で夏祭りに行くことにした。
「なんだ堀田は来ないのかあ。まあいいや。行こうぜ。」
僕は薄暮の中で、自転車を立ち漕ぎする近本の背中を追いかけた。昼間の蝉の合唱が落ち着いて、いまは区民農園の中からジー、ジーと虫の鳴く声が聞こえる。
区民農園の前の急坂を登ると、身体に響くような重低音が聞こえてきた。その音はさんかく公園に近づくにつれて大きくなっていく。
さんかく公園に着いて、音の正体はやぐらの上で鳴らされている和太鼓だとわかった。和太鼓の音はスピーカーから割れんばかりに流れる民謡の調べと重なり、暗がりの公園に轟いていた。
木々の合間に吊るされた提灯の、怪しいピンク色の灯が、大勢の老人たちを照らしている。老人たちは音に取り憑かれたように身体を揺らしながら、やぐらの周りを廻っている。
これが盆踊りか……。
それは正直に言って不気味な光景だった。盆踊りの輪の中をよく見ると、同じマンションに住んでいるおばあさんがいた。今日はそのおばあさんが浴衣を着て、盆踊りの引力に支配されながら一心不乱に踊っている。それはマンションの中で挨拶を交わす優しいおばあさんとは別人のようだった。
僕は盆踊りから目を逸らすように、公園の中をぐるっと見渡した。事前に聞かされていたので覚悟はしていたが、そこには金魚すくいやかき氷はおろか、一つの屋台すらも出ていなかった。少しくらいは楽しい催しがあるのではないか、という淡い期待も打ち砕かれた。
これでは、夏祭りというよりも盆踊り大会と呼ぶべきかもしれない。
「あ、あっちだ!お菓子貰おっと!」
盆踊りの轟音の中で、近本が町内会の名前が書かれたテントを指差した。
「お菓子なんてもらえるの?」
「お父さんが引換券くれたんだよ。町内会やってる人の子どもはもらえるんだって。」
近本はテントの中にいる大人に引換券を渡し、駄菓子の詰め合わせの入った袋を受け取った。
「あ、お父さんだ」
地べたにブルーシートを敷いて酒盛りをしているおじさん達の中に、近本のお父さんの姿があった。
「おう、友達と二人で来たのか。楽しいか?」
僕は「はい」とお世辞を言うしかなかった。ビール缶を煽る近本のお父さんは、赤ら顔で楽しそうに笑っていた。
「これ。お菓子もらった。」近本が駄菓子の詰め合わせを父親に誇らしげに見せた。
「おう、よかったなあー!あれ、お友達はお菓子もらってないのか?」
「あ、はい。引換券持ってないんで……。」
「なんだそうかあ。町内会で引換券配ってるからなあ。おい⚪︎⚪︎(近本の名前)、お友達にもお菓子分けてやれ。」
近本は少しだけためらいながら、僕に「蒲焼きさん太郎」を差し出した。
僕は近本にお礼を言って、薄っぺらい蒲焼きを噛み締めた。
あとになって僕の親に聞いたところによると、僕の家も毎月町内会費は徴収されていたらしい。なぜ引換券が町内会のすべての子どもに配布されていなかったのかは解せないところだ。
不思議なことに、この夏祭りもとい盆踊り大会には、盆踊りを踊るわけではない人たちも大勢集まっていた。しかしその人たちが何をしているのかといえば、大人は酒を飲みながら他人の盆踊りを眺め、子どもはその様子に飽き飽きして、公園の遊具で遊んでいるのだ。
なぜ人は無条件に、「祭り」という言葉に惹かれ、集まってしまうのだろう。
わざわざ遊具で遊ぶ気にもなれなかった僕は、「堀田のドタキャンは賢明な判断だったな」と思いながら、抑揚もなく延々と続く盆踊りに辟易してしまった。
夏祭りには何のドラマも生まれないまま、冗長な時間だけが流れた。
でも近本はずっと満足そうに微笑みながら、駄菓子を頬張っていた。なにがそんなに楽しいのだろうか。
「おーい!花火やるぞお!!!」
どこかで叫ぶ声が聞こえた。
群集が声のするほうへ寄っていく。
見ると大人たちが、縁石の上に市販の打ち上げ花火をいくつかセットしていた。
「おお!すげえ!!花火だああ!!!」
近本の歓声と共に、数発の閃光が走る。
住宅街のちいさな夜空に、ちいさな打ち上げ花火が上がった。
それは夜空に数本の光線を描いたものの、そこで花開くことはなかった。光線は光線のかたちのまま、あっという間に夜空に溶けて消えてしまった。
それでも、夜空を見上げていた群集からは拍手が起きた。
すぐに火薬の匂いが漂ってきた。夏祭りのグランドフィナーレは、ほんの数秒で終わってしまったらしい。
僕は切ない気持ちで、暗闇に花火の燃え殻を見つめていた。