デジタル化社会における学校での生き方 ~「個別最適」と「ウェルビーイング」とは異なる価値観を~ 2021年11月26日・全学労連交流集会基調

思い返すとこの基調を書くのには、かなりの時間と労力をかけました。

今年の人事院勧告に「ウェルビーイング」の語が入ったのは、個人的にはショックでした。

1年近く前の文書ですから今から見れば修正したい点もありますが、それでもあの日の集会でとどまらずもう少し多くの方に目にしていただきたいと思い、敢えてそのまま掲載します。


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デジタル化社会における学校での生き方
~「個別最適」と「ウェルビーイング」とは異なる価値観を~

2021年11月26日・全学労連交流集会基調
伊藤拓也(いとう・たくや 全学労連事務局長)


○「学校事務」21年12月号に書いたこと

 まず一点反省。タイトルの「学校事務職員の生き方」はなんか説教臭くて失敗したと思っている。雑誌の性質に寄せすぎた感。ただ、じゃあ何がいいかと言われると悩むところ。それはそれとして。
 マイナンバーカードをめぐる昨今の政府の売り文句、「よくわからない人こそ」「だって便利」「みんな作ってる」。なんとも情緒的な売り文句だと思う。「由らしむべし知らしむべからず」=「為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民にわからせる必要はない」。でもそれってマイナンバーカードだけ?という投げかけをした。
 以下、目下の科学技術の進化の中で特にわ注目されている技術=AI(人工知能)のお話を紹介しているが、AIについて細かく知ることが目的ではない(正直私も専門家の受け売り以上のことはわからない)。ポイントはそこではなく「道理をわからせることもなくただ施政に従わせればよい」という現代社会・学校教育・労働…の在り方を問題にしている。そこで用いられているのは実はAIではなく、「不安の扇動」だ。そのもとに教育体制が組み立てられ、学校労働が定義されようとしているということが問題なのだ。そうした非倫理的・非人間的な扇動に日教組事務職員部が迎合し、学校事務職員の「標準的な職務」にはAIを導入すべし、と文科省に率先して進言するような社会にあって、どう生きていくか。AIに何ができるかよりも、ただ「従わせればよい」が先に来てしまう社会とどう向き合うかが重要な論点なのだ。
 ところで、文中である経営学者の「日経新聞は54年間休まず365日『今こそ激動期』と言っている」「激動は論理的に連続しないから、結局見る対象を変えて『激動』にしている」という趣旨の言葉を紹介した。「変化」「激動」と「不安」はとても近い関係にある。そしてこのことは、「不安の扇動」とも、やはり近いことを意味する。


○「予測困難」「予測不可能」という「変化」の表現観測
「予測困難な時代」
16年12月21日中教審「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」=現行学習指導要領の大元
「予測不可能な未来社会」
17年6月22日松野文科相「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(諮問)」=いわゆる働き方改革諮問
文部科学省HP「学校における働き方改革について」冒頭https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/hatarakikata/index.htm
「予測困難なVUCA時代」(脚注:Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の略称)
21年6月3日教育再生実行会議「ポストコロナ期における新たな学びの在り方について (第十二次提言) 」


○6月18日閣議決定を見る
 菅前政権が目玉に位置付けた「デジタル化」は岸田政権にも引き継がれた。デジタル化のメリットが語られる一方で、いわゆる「デジタル弱者」への対応が課題とされている。ただそれ以上に、今政府が進めようとしている「デジタル化」とは、行政上の運営や手続き・広報等はもちろんのこと、準公共部門と呼ばれる健康・医療・介護・教育・防災・モビリティ・農業・水産業・港湾・インフラ、そして民間の企業活動・商取引、生活経済活動にわたるトータルなものである。まさに「社会丸ごとデジタル化」。ただ、このあたりの詳しいことはここでは省略。
 いま、学校現場で「デジタルっぽい」動きの筆頭と言えば、なんといってもGIGAスクール構想だろう。1人1台端末配布は全国でおおむね完了し、多くの学校において教育活動に利用され始めている。しかし「社会丸ごとデジタル化」政権下におけるGIGAスクール構想は、それではとどまらない。GIGAスクール構想は、初等中等教育を良くも悪くも囲ってきた枠組みに越境をもたらしたようだ。
 具体的にそれを象徴するような、今年6月18日の4つの閣議決定を紹介する。
「経済財政運営と改革の基本方針2021」(いわゆる「骨太方針)は、初等中等教育について成長を生み出す「4つの原動力を支える基盤づくり」の筆頭に位置付け「GIGAスクール構想と連動したハード・ソフト・人材の一体改革」推進などを打ち出した。それを通じ「個人と社会全体のWell-beingの実現」を掲げると共に、データ駆動型教育への転換、EdTechの活用による個々のニーズや理解度に応じた学習、STEAM教育などにより「個別最適な学び」と「協働的な学び」の実現を謳っている。
「成長戦略実行計画」でもギガスクール構想(原文ママ)などを推進し、「発達の段階や児童生徒の状況に応じた個別最適な学びや協働的な学びを充実するため、データ駆動型の教育への転換による学びの変革を推進する」と言及。
「統合イノベーション戦略2021」では、「Society5.0の実現に向けた科学技術・イノベーション政策」と銘打った第2章のなかに「一人ひとりの多様な幸せ(well-being)と課題への挑戦を実現する教育・人材育成」という項目を置き、そこで「教育データ活用等、教育の分野におけるDXを進め、データに基づく個別最適な学びと協働的な学びを実現」と謳っている。
「デジタル社会の実現に向けた重点計画」では、教育データの利活用と教育ビッグデータの利活用を「『データ駆動型の教育』の車の両輪として推進」と謳うとともに、「ICT を活用しつつ、対面指導と家庭や地域社会と連携した遠隔・オンライン教育とを教師が使いこなすこと(ハイブリッド化)で、『個別最適な学び』と『協働的な学び』を展開することが必要」とした。そして具体的に、マイナンバーカードの活用も視野に入れた児童生徒個々の学習IDや、教育データの蓄積と流通の仕組みの構築を検討課題と明記している。
 そして共通して述べておきたいのは、これらの冒頭では必ず「変化への対応」が位置づけられていることだ。


○GIGAスクール構想と「個別最適」
 そのうえで、先に挙げた4つの決定ではいずれも「個別最適な学び」と「協働的な学び」が挙げられている。また、21年1月には中教審が「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~」を答申しており、タイトルから一目瞭然な通り、目下の教育政策の重点がここにあることは明白だ。
 このうち特に「個別最適」は、19年12月のGIGAスクール構想においてもその旗印になった(当時は「個別最適化された学び」)。その用語の出自は、以下に詳しい。


 「個別最適化学習」の始まりは18年6月、文部科学省の「Society5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会」省内タスクフォース(特別作業班、TF)報告と、経産省「『未来の教室』とEdTech研究会」第1次提言だった。というより経産省主導の色合いが濃かったことは、GIGAスクール構想も含めたその後の経緯を見れば明らかだ。 もともと個別最適化学習の「学習」は、昨年10月の中教審教育課程部会で溝上慎一・桐蔭横浜大学長が発表した通り人工知能(AI)のアルゴリズム(処理手順)のことである。つまりは「教育の言葉」ではない。そこまで明らかにされながらも中教審、というより文科省事務局は一部委員の懸念を聞き置き「個別最適」で通した。しかもイソップの言葉を捨て去ってもよさそうな時期に、である。
渡辺敦司「中教審初中答申 時期逸した「文学」の言葉」2021年2月7日http://ejwatanabe.cocolog-nifty.com/blog/2021/02/post-e6635b.html

「令和の日本型学校教育」答申では、「学習履歴(スタディ・ログ)や生徒指導上のデータ,健康診断情報等を蓄積・分析・利活用する」ことが重要としている。これら教育データの利活用により、特に個別最適な学びが実現する、という考えだ。
 先述の6月18日閣議決定でしきりに「データ駆動型教育」という用語が出ているが、これは以下のように説明されている。文中「堀田氏」とは、教育データ利活用推進の第一人者である堀田龍也・東北大教授のこと。


学習者の属性、学習履歴、成績といった教育データを活用することで、学習者一人ひとりに最適な学習環境を提供したり、ビッグデータ解析によって授業や教育行政を改善したりできると言われる。こうした客観的なデータ基づいて日々の授業を改善し、教育行政の方向性を見いだしていくのがデータ駆動型の教育だ。データ駆動型教育の具体例として、堀田氏は2つの例を挙げる。一つは「例えば、世帯収入や地域の高齢化率と学力の関係といった、さまざまなデータを組み合わせて分析すれば、何か分かることがあるかもしれない。そうしたエビデンスを踏まえ、児童・生徒の努力とは関係なく恵まれない状況にある子供たちを支援する予算を付けるような施策に役立つ」(堀田氏)という。もう一つは、「学習履歴などのデータを基に、その児童・生徒に最適な学習方法や指導方法を見つけることができる」(堀田氏)ことだ。
日経パソコン・江口悦弘 「GIGAスクールの次は「データ駆動型教育」に向かう 教員にはデータに裏打ちされた指導が求められる時代へ」2021年5月19日https://project.nikkeibp.co.jp/pc/atcl/19/06/21/00003/051700226/

 要はデータ駆動型教育も、教育データ・ビッグデータの利活用による個別最適な学びの実現と部分的に同義である。
 教育データ利活用がしきりに語られる背景には、GIGAスクール構想による1人1台端末と通信環境の整備がある。このことが、デジタルデータの収集・蓄積を飛躍的に可能にした。
 構想をめぐっては、教育におけるICT機器の利用がOECD最下位であることがしきりに強調された。しかし実際の動きを見ると、単純に他国に負けない教育環境を整備しようというだけの話ではないことが日々明らかになっている。デジタル教科書とて児童生徒の登下校に際して重たい教科書を何冊も背負わなくて良いようになる、などという素朴な話ではない。デジタルドリルとて採点・集計の負担から教員を解放する、などという単純な話ではない。よしんばそうした副産物はあるにせよ、真の狙いは学習データの幅広かつ効率的な収集にある。
 教育データの利活用は、社会的コンセンサス(合意)のないまま進められているのではないだろうか。そもそもGIGAスクール構想自体がそうであったが。由らしむべし知らしむべからず。


○「個別最適」は本当か
 そうはいっても、教育データ・ビッグデータの分析・解析とその根拠に基づく教育指導が本当に「個別最適」であれば、歓迎する人も多いかもしれない。人間(この場合教員)が持つ偏見やバイアス、あるいは教育手法や教育思想、経験の差を排除し「公平」「平等」な教育につながる、と考える人もいるかもしれない。
 しかし実際には、データの収集は個別に行われていても、その分析と適用まで個別化できるとは現状では言えないようだ。「個別最適」の判断を下す背景にあるのは、あまた収集された大容量の教育ビッグデータの解析の結果であるが、それの意味するところは「プロファイリング」=類型化であって、ビッグデータと個別のデータを突き合わせて導き出される類型的な個人像に対する適用でしかない。個別データとビッグデータ一般の関係はそうであるという。だとすれば教育データにおいても同じことが言える。
 それでいて、教育データ利活用ありきの施策は教育データ・ビッグデータのエビデンス(根拠)としての地位を向上させ、類型適用への確信を強固なものとする。そうするとどういうことが考えられるか。「個別最適化した結果、君にはこの程度が妥当なのだよ」というネグレクトと、「個別最適化した結果その能力止まりなのは君の素質や取り組みの問題」という自己責任論ではないだろうか。


○「個別最適」と「ウェルビーイング」
 そんなネグレクトと自己責任論をカバーするのが、先の閣議決定でも登場した「ウェルビーイング(Well-being)」という概念と言えよう。もとは1947年のWHO憲章が示した健康の定義を示す言葉だ。
 ただ、目下各種政策文書で用いられるそれは、21年3月26日閣議決定「第6期科学技術・イノベーション基本計画」によれば「ひとりひとりの多様な幸せ」と説明され、その内容は、経済的な豊かさだけではなく「精神面も含めた質的な豊かさの実現」だという。
 現に経済的に困窮している人が多数いる社会にあってそのことを軽視するかのような認識、個々人の精神面の豊かさを科学技術・イノベーション政策によって実現しようという発想、いずれも問題だろう。そのうえ、これの実現には「同時に複数の仕事を持つ」「途中でキャリアを換えることも容易」といったことができる社会が必要だとしている。端的に、不安定雇用のギグワーカーを拡大するものだ。連続1152時間勤務も可能とする高度プロフェッショナル制度や、労働者の使い捨てを容易にした労働者派遣拡大等が「多様な働き方」なる美名のもとに進められたことを想起する。実際、今年度の教職員等中央研修事務職員研修では、ウェルビーイングを「主観的幸福感」と説明したうえで、働き方改革をめぐり「『時短』から『働きがい』へ」とつなげる論理として講義がなされた、との報告を耳にした。
 前の文科相は「身の丈」発言で批判を浴びたが、「個別最適」による選別と「ウェルビーイング」による慰撫(?)と親和的な発言であり、まさに現政府下の社会のありようを示していると言える。


○おわりに
「個別最適」も「ウェルビーイング」も、とても耳障りのいい言葉。でもその意味するところを深めると、ぽっかり闇が広がっている。
 そもそも「変化」、しかも「加速度を増し,複雑で予測困難」と言われる「変化」による「不安の扇動」に対して、それを生きる力の育成が必要だ、と現在の学校教育政策では言われている。そして同様の突き付けは子どもだけではなく、大人の労働者にも向けられている。そうした文脈と地続きで出ている点は重要だ。
 ところで、今を生きる私たちはなぜ「変化」を前提として自己を形成しなければならないのか。そもそも言われている「変化」だって多くは人が起こすとされるものであるし、「未来社会」だって人がつくるものではないのか。「社会的変化を乗り越え,豊かな人生を切り拓き,持続可能な社会の創り手となることができるよう,その資質・能力を育成することが求められている」と言われ、「変化を前向きに受け止め,社会や人生,生活を,人間ならではの感性を働かせてより豊かなものにする必要性」と言われるのは、「社会であるの創り手」なのか。社会(の変化)に対してそれは、じゅうぶん客体的に位置づけられているのではないか。
 予測不可能な未来社会の変化を乗り越えるべく資質・能力を展望するのではなく、どんな未来社会をつくっていきたいか。

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