『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.3』とジェームズ・ガンが見据える新たなヒーローのあり方
前置き
映画評論のYoutubeチャンネル『BlackHole』に投稿した文面です。
番組内で紹介してもらったのですが、さすがに長すぎたのと、込み入ったことを言い過ぎていたので、結論の手前で紹介が終わってしまったのでこちらで公開したいと思います。
私の中で『暴太郎戦隊 ドンブラザーズ』の評との連結を意識して書いたものです。『Vol.3 』と『ドンブラザーズ』は、現在のヒーロー作品の中でも、特に先進的なビジョンを示していると考えます。先の『ドンブラザーズ』評も読んで頂けますと幸いです。
本文
◇障害の社会モデルとガン作品のギャグ
臨床心理士の資格を持っている者です。仕事での経験や学びから思ったことを書きます。 ジェームズ・ガン監督は、本人が意識ししているかどうかはわかりませんが、 障害の社会モデルに最も接近している映画監督だと思います。 そして、自助グループのメソッドや、”ケアする/される関係の互換性”を根拠に ヒーローの在り方を探求していると、私は考えています。 障害の社会モデルとは、医療モデルに対抗して生まれた考え方です。 簡単に言うと、「障害の原因は当事者の中にある。だから病気の原因を取り除いて治療する必要がある」と考える医療モデルに対して、「障害の原因は当事者の社会参加を阻む社会の側にある。だから、社会を変える必要がある」と考えます。 社会モデルは、障害者が排除や差別の対象となったり、治療の現場で人権が保障されなかったりすることを背景に生まれました。 今の段階でも、”インクルージョン”や”共生”という言葉と共に社会に徐々に浸透している過程にあります。 ちなみに、精神障害者の開放を日本で最も先進的に始めたのが、ライムスター宇多丸さんのお父さんである、精神科医の石川信義氏です。 高橋ヨシキさんは、ガン監督について、”境界にある人を描く””境界にある人を面白いと思っている節がある”という旨を 語っておられました。ガン監督作には、ハッキリ言うと、”発達障害者” ”軽度知的障害者” ”知的障害者”に該当しそうな人が登場し、それらの人の特徴が、とくに捻りもされずにギャグとして処理されています。 その描写を、ともすると差別につながり危険であると捉えることもできますが、”健常者”が受け入れやすいような ポライトな人物造形にしない、という考えに基づいているのではないでしょうか。 「迷惑は迷惑なんだけど、その人がなんとなく社会の中にいられて、その人らしい良さを認める人がたまーにいる」というあり方を目指した結果だと考えられます。 基本ポンコツで、育ちも悪くて、社会に認められたふるまいをできないから結果としてアウトローな生き方しかできない人たちが、置かれた立場によってダメなままでヒーロー的な存在になる。障害の社会モデルでヒーローを考えた際、あまり賢明とは呼べない人物を主人公や、努力しても克服できない欠点を持つ人を主人公とすることは、必然的だと思います。同時に、人の利他性をギリギリまで信じる、性善説に基づいているとも考えられます。
◇「家系」な自助グループヒーローチームと、そこからの卒業
「ダメな人達を束ねてヒーローチームにする」際にとられたメソッドは、ヒーローチームを自助グループ化することでした。 ガーディアンズやタスクフォースXなどのチームは、社会不適合者の自助グループといってもよいと思います。 同じ苦痛を抱えるもの同士で、共感し支え合うことは、自助グループの大きな機能です。しかし、グループ内で権威関係が発生したり、グループに依存することで「病気の自分」から抜け出せなくなるなど、問題も生じがちであるとも耳にします。他者と苦痛を共有する過程で、人格が溶け合うような錯覚を覚えて自他の区別がつかなくなる、てらさわホークさんの言う「イエ系」化していくということでしょう。 他者と溶け合って依存することはトラウマから立ち直っていくために必要な過程であり、自助グループが内閉的なのも、社会からの避難所として機能するために仕方がない側面があります。 『ガーディアンズ vol.2』のクイルは、ガーディアンズのメンバーを「家族」と捉え、自分と区別できていない状態であり、回復の途上にあったのだと思われます。。しかし、グループは一時的な”居場所”に過ぎず、いずれは自分の人生に帰っていく必要があります。『vol.3』のクイルは、卒業すべきタイミングを逃し、とっくに卒業したガモーラとの分離を受け入れられない状態にありました。 『vol.3』は、クイルをはじめとしたガーディアンズのメンバーが、自分と他者を区別して一人で立てるようになり、人生を立て直すまでの物語だったのだと思います。
◇傷を負った弱者=真のヒーロー
そして『vol.3』は、自助グループとして機能していたガーディアンズが、真にヒーローチームとして再定義される物語でもありました。それは、グループの外に存在する他者の苦痛に気が付き、手を差し伸べることによってなされます。対人援助の業界では、”ケアする”側として働いている人が、昔は”ケアされる”側であったケースがとても多いです。心に傷を負った人は、自分が受けたケアや、自分がしてほしかったケアを人に施すなど、自分の傷を使って社会と関わろうとし、その実践を通じて自分を治していく、ということです。多くのメンバーが卒業していくなかでロケットがグループに残されたのは、彼の傷がとても深く、それ故に他者に共感し援助する力を持っているからだと思います。 『vol.3』が傑作なのか、駄作なのか、私には判断ができません。音楽もうるさいし、ギャグも滑っている気がするし、過剰にエモいと思う。完成度は、第1作に遠く及ばないでしょうでも、心に突き刺さって仕方がなくて、 持っていかれてしまう。
◇「正常と異常の境界」すら飛び越えて
「正常と異常の境界は曖昧」ということをテーマとしたヒーロー映画は過去に多く存在していました。正義と悪の基準を医療モデルに依った場合、単なる正義の相対化に終わったり、悪の誘惑に打ち勝ったのを”個人の力”に帰属したり、「親や恋人に愛されたので大丈夫でした」と既存のジェンダー観を補強したりと、限界が見えていたのではないでしょうか。ガン監督は、社会モデルを導入したり、個人の意思に頼らないヒーローの形を試すなどして、新しいヒーロー像を作っている過程にあると私は思います。今後の成否はわかりませんが、DCユニバースの統括やスーパーマンの監督をガン監督が担うのは、期待を持って見守りたいです。