河合隼雄『子どもの宇宙』【基礎教養部】
第2章「こどもと秘密」において取り上げられた著者のエピソードの1つを紹介する。著者はある母親から、自分の子どもが養子なのであるが、そのことを本人に告げるべきかどうかで相談を受けた。生まれてすぐ親類からもらい受けて、本人は全く知らないはずである。ところが、本人が高校二年になってからきゅうに成績が低下し、どうも不安定なように思われる。これはひょっとして「秘密」を知ったのではないかと思い心配になってきた。そこである教育者に相談すると、「真実は隠すべきではない」と言われ、それでも不安になってほかの人に相談すると、「本人が知らない限りは、言うべきではない」と言われた。いったいどうするのがいいのだろうか、という相談であった。
ここでの解答として次のように述べられている。どちらが正しいかという議論は無意味である。どちらも一理があって、議論をするなら何とでも言えるであろう。子どもにとって、それがどんなことかということを大人がどれほど共感し得るかが最も大切なことなのである。だからこのようなとき私のするべきことは、期待されているような「答」を言うのではなく、この子どもの置かれている状態を親たちに心からわかってもらうように努力することなのである。その後、養子をもらった親だけでなく、実の親の方もそろって、この子に対してどうしても養子としなくてはならなかった由来を話すとともに、子どもに苦しい思いをさせてきただろうと手をついてあやまられた。このことによって子どもは事実を受け入れることができて、以後、養父母に対しても実父母に対してもよい関係を維持してゆくことができた。秘密を打ち明け、それを共有してゆこうとするとき、それに伴う苦しみや悲しみの感情も共にしてゆく覚悟がないと、なかなかうまくゆかないものである。
日常生活においてどちらの選択をするべきかという状況はよくある。しかもどちらも正解であり間違いではないといったケースも少なくはない。そういったときにどう考えればよいのか。私はやりがちなのは、それぞれに場合に対し、メリットとデメリットをあげメリットが大きいほうの選択が正しいと機械的に結論付ける。しかしこういった一見合理的にも思える方法が必ずしもいいとは限らないことを理解した。今回の例でいうと、これでは「養子である」という事実に対しその苦しみや悲しみに真っ向から立ち向かっていない。ただどちらの方がメリットが大きいかを考えそれを押し付けているだけということになる。
次に第1章「子どもと家族」で紹介された児童文学の「ラモーナとおかあさん」の一部を取り上げる。ラモーナはある出来事により自分だけ家族の中でのけものにされていると感じる。そんな中、ラモーナは家族からラモーナにはまだ無理なんじゃないかと、子ども扱いされたことに怒りトイレに逃げ込む。そこでふと歯磨き粉の新しいチューブがあるのを見つけ、生まれてからずっとやってみたいと思い続けてきたことをする。つまり、超大型徳用サイズの歯磨き粉を一本まるごと全部絞り出してみたくなったのだ。ラモーナはそれを決行し、大満足であった。もちろんそのあと母親に叱られる。しかしラモーナはどんなに小さい子どもでも家族のなかでは精一杯に自分も一人前であることを主張したいのだ。ほかの家族にはできないが彼女だけにできることもあると言いたかったのである。
子どもは大人が想像できないことをすることがある。それはいたずらであったりもする。しかし、それはこのラモーナのように何か意味が、主張したいことがあってやっているのかもしれない。大人はそういった場合にただ叱るのだけでなく、子どもがなぜそんなことをしたのか考える必要があると思った。
この本では「子どもの宇宙」を探索することは、自己の世界への探索につながると書かれている。子どもの素朴な行動の裏に思いもよらない意味が隠れているのなら、その意味を考えてみると何か発見があるのかもしれない。