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キャラを降りる

 皆さんは人間関係で特定の役割を背負っていることはないだろうか。

 ムードメーカー、天然、いじられ、大人しい、優しい、盛り上げ役、ツッコミキャラ、脱力系、しっかり、毒舌…などなど。
 だいたい、自分の役割が果たせて楽しい立ち位置や身を守るために仕方なくやつしているキャラクターというものがある。
 私は中学時代から10年以上、ツッコミキャラだった。
 友達がボケればユーモアを交えてツッコミ、天然の子が斜め上の行動を起こせば常識を説き、いじられればノリツッコミをしたり…。
 楽しかった。しかしここ数年、ツッコムということに疑問を感じるようになってきた。お笑い芸人の猿真似で他人とコミュニケーションをとる自分に辟易もしていた。
 そのため、ツッコミキャラを降りようと考えた。その際に、そもそもなぜツッコミキャラなどやっているのかと振り返ってみた。
 たしか、きっかけは小学校から中学校に進学した時だ。
 私の在籍した公立中学は二つの小学校から生徒が進学するのだが私の学校の半分は隣の学区の中学校に進学することになっていた。もう一つの小学校からは六年生が全員進学してくるため私の学校から入学した人数が少なく、パワーバランスが偏っていた。そのため、隣の小学校のコミュニティに馴染もうとし、下手に出てしまった。これが悪手だった。
 元々、隣の小学校のほうがやんちゃな生徒が多かったのも事実だが上下関係に敏感な思春期の子供は自分から下手に出てくる奴の卑屈な態度を逃さなかった。徐々に接し方が乱暴になり威圧的になっていった。頼まれごとを拒むと暴力を振るわれたり、女子のいる前で肩に担がれ恥をかかされたりなど危害を加えるようになっていった。
 このままではまずいと思った私は現実逃避をした。元々ドラマが好きだったのだがあの時期は何かに救いを求めるように金八やGTOといった学園モノを借りていた。そんな時、一つのドラマに出会った。『伝説の教師』というタイトルのそのドラマはダウンタウンの松本人志が原案と主演を務めたものだ。雑にあらすじを書くと、債務者である主人公借金取りに脅されて伝説の教師・南波に成り代わって教員として生徒たちを導くという話だ。
 このドラマのいじめを扱った回にお笑い芸人らしい発想の台詞がある。


「いじめられてるっていうことはチャンスなんやぞ、なんでそれを笑いに変えていかん!」


 当時、中学一年生で自分がいじめられているということに薄々気づいていた私には天啓だった。「これだ!」と思った私はその日からすぐにバラエティ番組やネタ番組のお笑い芸人を観察しだした。
 当時はお笑いブームで陣内智則、インパルス、ドランクドラゴン、タカアンドトシ、アンジャッシュ、アンタッチャブル、おぎはやはぎといった錚々たる芸人たちが活躍していた。
彼らがいじられている時にどういう反応をしているのか、どういった返しをしているのか観察し学校で実践した。
 最初はうまくいかなかった。頭のいいクラスメイトに「ツッコミどころそこじゃないだろ」と逆にツッコまれたり、怒ってると勘違いさせて女子を怯えさせたり、キレキャラ扱いされたり散々だった。
 しかし、暴力的なコミュニケーションはエスカレートしなかった。そして、二年に進級しクラス替えとなった。幸運なことに嫌な接し方をしてきた奴らとは教室が大きく離れることになり心理的に楽になった。

 こんな風に軽く振り返って気づいた。

 「あれ? 一年生を乗り切った時点でツッコミキャラを続ける必要性はなかったんじゃね?」

 まあ、実際はツッコミキャラが定着し周囲もその振る舞いを求めている以上いきなりキャラ変するなど中学生の私には無理だっただろう。だがやはり、十年以上経って人間関係も環境も変わっているのに続ける必要はないと感じた。
 中学の友達(もちろん暴力的なコミュニケーションを取ってきた奴らではない)は数人しかおらず年に何回か会うだけだ。

 というわけで私は長年自分を支えてきたツッコミキャラを捨てることにした。
 それで何か自分が変わるわけではないという確信がなぜかある。それはきっと、他人に対して見せていたツッコミキャラ以外の確固とした自分少しずつ築いていたからかもしれない。だから勇気も何もいらない。役割は私自身ではない。

 私はキャラを降りることにした。手放すことが怖い役割は役割とアイデンティティを一緒にしてしまっている。それは依存だと思う。また、それができない人間関係は力関係が固定的で不健全であり、環境が変ではないか見つめなおす必要がある。

 とはいえ、ツッコミキャラやいじられキャラ特有の悲喜こもごもというのはたくさんあるので色々と記事を上げていきたいなと思う。



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