新 潟 散 見
奥利根の渓流、上越國境の
新緑、東洋一の清水トンネル
さうして遠山の雪渓――車窓
に見る爽快な五月の旅を十分
にたのしみ乍ら、殺風景な新
潟停車塲を出ると、一人の老
車夫が、十錢でも二十錢でも
いいから乗つて呉れとたかる
ので、可哀想になつてぼろ車
に乗ることにした。乗つて了
つてから、どこへ行きますと
いふ。行き先もきかずに値段
を云ふなんでのん氣な車夫だ
僕は新潟ホテルへ行くんだ
がと答へると、彼はあそこは
お止めなさいと手を振つた。
さうしてあんなところは宿屋
ぢやなくてバーですぜと僕の
顔をみた。彼の顔つきをみる
と如何にも親切心から云つて
ゐるらしく、新潟ホテルにケ
チをつけて、渡りのついてる
宿屋へ引張りこむやうなイン
チキ車夫でもなささうだ。僕
だつて何も新潟ホテルを知つ
てゐるわけではないし、若し
彼の云ふ通りバーだつたら、
明日の朝午前六時に北越製紙
へ行く肝心の役目を果せなく
なる虞れがある。そこで車夫
の案内にまかせることに決め
て了つた。
さて間もなく万代橋にかか
る。ここで僕は先つ第一に失
望した。洋々たる信濃川に掛
る日本一の長橋を想像してゐ
たのに、今眼前にみるものは
川の三分の二を埋めつくした
埋立地と、現代式の橋である
これぢや新潟の特色は帳消し
である。兎に角がつかりし乍
ら、橋を渡りきると直ぐ左側
の宿屋へ引張り込んだ。外見
はさうでもないが、室へ通る
と恐ろしく時代がかつたつく
りである。僕相當の宿屋へ案
内しろと車夫にたのんだのだ
から、恐らくこれが僕相當の
家かも知れない。午後四時三
十分―五月の日は永い。十疊
の間に一人でぽかんとしてゐ
るのもつまらないから、ここ
で一番賑やかな街はと訊いた
ら古町通りですと云ふから、
直ぐぶらぶら出掛ける。新潟
は水郷の街だときいてゐたか
ら、どんなに優雅な街だらう
といろいろ空想してゐたが、
みると、なるほど街の縦横に
掘割が幾筋もあるが、何れも
どぶどろの鼻持ちのならぬ臭
ひがして、兩側の柳の古木が
影をうつさうにも流水がない
ここでも僕は第二の失望を感
じた。古町通りの交叉點には
車輪つき移動式のゴーストツ
プが置かれ交通巡査が一人、
把手を握つてゐる。一方面の
通行が約五分間だ。さうして
未だ半町も先きから來る自轉
車に向つて、おいでおいでを
して、やつとのことでがちや
んと回はす。誠にのん氣なも
のである。
新潟一のさかり塲だといふ
この街通りには東京式のバー
あり、百貨店あり、蓄音機店
あり、一向に珍らしくもない
ひととはり歩いてさつきと引
き上げて了つた。
僕は新潟に來て、鍋茶屋を
知らず、新潟美人を知らず、
然も新潟のわる口を云ふのは
甚だ失禮であること位は知つ
てゐる。が、新潟の特色を殺
し、或ひは生かさうとしない
市民の心掛にはどうしても敬
意を表するわけにはゆかない
のである。
(昭和七年五月三十一日夜
新潟にて)
(越後タイムス 昭和七年六月廿六日
第一千六十七號 六面より)