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靑 嵐 莊 佛 心


      本 社  菊 池 與 志 夫


 觀音禮讃の動機は佛像觀賞の趣味から入つた

と言はれる靑嵐莊主人が、

   奉 爲 父 母 祖 先 供 養
   如 意 輪 觀 世 音 菩 薩
   尊 像 一 軀 敬 造 者 也

 斯う銘文を書いて、半跏二臂の石彫如意輪觀

音を庭内に建立せられたのは、昭和十年十二月

の事である。

 自己卽觀音といふ神人一如の人格完成への悟

入をひたすら念願とせらるゝ主人の觀音信仰へ

の精進振りは、常づね私の心底に强く響くもの

があつたが、それにも増して激しく胸を搏つの

は、主人の崇祖、考養の心飽く迄深きことであ

る。

 主人の母堂は八十四歳の高齢を以て去年の夏

天壽を完うされたが、殊にその晩年に際しての

主人の孝心には並なみならぬものがあつた。

 幾百里を距てた南國の郷村にあつて入佛の日

徐ろに近づく御老軀は、時に自ら衰へを訴へら

れることも多かつたが、その度每に主人は新鮮

な鶉の卵を求めては私にその送荷を依賴された

のである。これが不思議に母堂の血脈を昻めて

非常に喜ばれたといふ便りがあり、これを私に

語られる時の主人の言葉には涙があつた。

 斯く迄の主人の孝心も空しく、遂に枯れるが

如く忽然と他界せられたが、その時主人は常日

頃から胸底に去來してゐて果さなかつた父母供

養の石塔の建立を心に固められたのである。

 一月半ば過ぎの或る日の午前である。風のな

い、靜かな小春日和で、冬らしい、軟かい日射

しを、着物の袖で抱きすくめ乍ら、私は九品佛

の松並木の下をゆつくりと歩るいて行つた。何

か快適な俳句でもつくれさうな心の落着いた日

であつた。

 軈て靑嵐莊の客となつた私は、硝子戶を開け

放つた綠側のぬくぬくとした陽だまりの中に、

猫のやうに背をまるめ乍ら、先づ庭前の觀音像

と、新たに建立された七重石塔を心のうちで拜

んだ。

 相客の前田勇夫氏は、枯松葉を敷きつめた庭

をあちこちと踏みしめ乍ら、ローライコードの

グラスを覗いてゐる。枯松葉の下の庭土は霜柱

でふくらんでゐるらしく、足を下ろすたびにザ

クザクとうそ寒い音を立てるのである。

 石塔は垣根近くの沈丁花とこんもりと剪り揃

へられた黄楊の木との間にどつしりと捉えられ

て、塔の肩の邊りには松の一枝が差しかゝつて

ゐる。この松の雫で石の肌はうつすらと程よく

苔さびてゐるが、氣品の高い感じである。

 前田氏は會心のシヤツターをきつてから、藝

術家としては珍らしく謙譲な物腰で、「いゝ作

が出來ますか、どうか――」などゝ笑ひ乍ら、

踏石に庭下駄をぬいで、主客三人は座敷に對座

したが、こゝに插入してあるのは、魂なき石塔

の有るが儘の姿を作者の心眼で思ふ存分に活寫

した前田氏の傑作である。

 南向きの客間には橙色の午後の陽がいちめん

にふりこぼれて、花臺には主人の丹精になる梅

の盆栽が五百幾つといふ花をつけて咲き匂つて

ゐる。季節は大寒に近いが、火桶もいらない明

るい室で、主客は膝を交へて寂かな日曜日の午

後を語り暮らしたが、人間味のあふれた主人の

温かい心から滲み出るやうにポツポツと語り出

された話を継ぎ合せると斯うである。

 去年の夏、母は八十四歳の高齢を以て忽然と

死んで逝つた。永に亘る限りなき慈愛に對し、

酬ゆるところ甚だ少なかつたことを殘念に思つ

てゐる。

 この母と、二十六年前に死んだ慈父とを供養

する爲めに七重石塔の建立を思ひ立つたのであ

るが、地を庭前に選んだのは朝夕塔婆を拜し、

無き父母を追憶し報恩の誠を致さんが爲めであ

る。

 石塔の建立に當つて子孫の爲めに由來書を紙

書し、硝子壜に密封して臺座の下に納めて置い

た。幾十百年の後、層塔が動かさるることがあ

つたら、何人かによつてこの書き物が發見され

るであらう。

 建立由來書にはこう記して置いた。

  爲父供養石造七重層塔建立者也
   母
   昭和十四年七月二十三日
           孝子 ○ ○ ○ ○

 孝子云々は「孝行な子」と自讃したものでは

なく、喪に服してゐる子と云ふ極く輕い意味で

あつて、昔から供養塔にこの文字を彫り込んだ

遺例に準じたものである。この石塔は石質赤御

影、荒彫り、七層、臺座より双輪までの總高八

尺五分、各層に適度の遞減があつて安定感に富

み、軒の兩端に適當な反轉を見せ、軒の出と高

さの比率も妥當であつて見る目にも美しく感じ

る。又造塔の様式及び手法としては鎌倉期の古

調に範を取つたものと思はれる。軸部に金剛界

四佛(阿しゆく、寶生、阿彌陀、不空成就)の像を

浮彫にしてゐるのも、亦同時代以後の石塔に多

くの作例が見られる。

 この石塔を手に入れるに就ては面白い因緣話

がある。二三年前でもあつたか、或る日曜日に

そこらを歩いて居る中に玉川電車の駒澤停留場

に出ると、そこに多くの庭石や燈籠を持つてゐ

る大きな石屋を發見したのである。ふと見ると

門外の石上に七重層塔が立つてゐるではない

か、よくよく見ると小型ではあるが樣式も手法

も古調を帶び誠によく出來て居る。恐らく造塔

に經驗のある者の製作で、そこらにあり來たり

の凡工(石工)の作とも見えない。造り上げて

十年前後は經つて居らうか、適度なさびも着い

てゐる。何日の日か自分の庭上に据へる機會も

あらうが、これ程の作品に對し世間の人が關心

を持たない筈はないから、それ迄に或は買手が

付くかも知れない、などと想像し乍ら、此塔の

成行を見護る氣持で年に一二回は石屋の前を通

ることにしたのである。そして石塔が相變ら

ず、嚴然と石上に立つて居るのを見て、何かし

ら安易な氣持で家に歸るのであつた。ところが

計らずも去年の初夏、母の喪に會ひ急な供養塔

の建立を思ひ立つたが、その瞬間この塔が頭に

浮んだのである。そこで大急ぎで石屋を訪ねて

見ると、依然として石塔は石の上に立つて居

る。直ぐに主人に面會を求めたが生憎留守であ

る。一老婦人の燈籠に水を打つたり、そこらの

落葉の掃除をしてゐるのに出會ひ、試みに石塔

のことを尋ねたところ、よくは知らないがその

塔は昨日賣れたやうな樣子だ、と事もなげに云

ひ放つたのである。數年に亘りか程までに心に

掛けてゐたこの塔が、一日違ひで賣れるとは何

たることであらう。これ程の佳作に代る石塔を

探し出すには多大の勞力と時間をかけねばなる

まい。恐らく三年や四年では六ヶ敷いかも知れ

ない。と打ち萎れて家に歸り、夜になつて石屋

に電話をかけたところが、賣れたのは他の塔で

これではなかつたことが分り、これ正しく父母

神靈の御加護によるものと思はず合掌を禁ずる

を得なかつた。それから買取りが交渉され引渡

しが濟んで、亡き母の四七忌前一日の七月二十

三日、芽出度く建立を終つたのである。

       (昭和十五年一月二十八日稿)

(「王友」第十七號 
    昭和十五年七月五日發行より)

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#ローライコード




             ↑ 漢字不明瞭箇所



          紙の博物館 図書室 所蔵

※九品仏の青嵐荘についてご存知の方が
 いらっしゃいましたらお知らせ下さい。

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