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ビールの話 ★大日本麥酒川口工場見學記★

                                                                            本 社 編 輯 部


                                            右から二番目が一錢亭


 序。華の東京も數寄屋橋たもとと言ふ目貫にこの春來白堊の四階建がたてられ始めた。建築中の板圍ひに墨黑々と?を掲げてまづ都人士の好奇心を捉へたタクテイクは聊か心憎い次第だが、夏に入つた六月の初め、ビヤホール・ニュー・トウケヨウと銘打つて面被紗 ベールをかなぐり捨てた。果然各階
押すな押すなの大繁昌。其の日其の日に三百樽四百樽のなまが泡と消え去ると言ふのである。ジョツキにつげば六〇〇〇リツトル七〇〇〇リツトルにもなる。快よく泡立つた琥珀の淡液がギヤマンの酌器からほろ苦がさを味覺一杯に灌ぎかける。キユーッと許り五臓に泌み渡る頃枯涸した人々の胸に夢が蘇り、虹の様な想が瞼の裡に浮彫される。昔希臘の詩人アナクレオンは詠つた。酒のめば心自ら清く、杯を傾ければ胸は高鳴る。酒や酒このうま酒。世の交遊を知らざる下戶こそ哀れ。胸襟を開いて語る若人の集ひ。融合する心と心。此の時キユピツトの神も天を見棄てゝ此處に下り、女神ヴイナスも酒神バツカスも此處に降る。
    ×     ×     ×
 王友編輯部による第三回見學は麥酒工場と極まる。詳しくは大日本麥酒川口工場。七月九日折から梅雨明けのうだる樣な暑さの中を佐上老を筆頭に靑木、矢部、菊池、栖原、毛内の一行七名。カメラマンとして山口徳一郎氏。筑紫漫畫子が遠く滿洲にはなれたので新たに毛内君が慣れないスケツチブツク小脇にかゝへる氣の毒さである。赤羽の錢橋の少しく下流で荒川を渡る。こゝが鑄物の川口市。街を抜け切つた邊りに、ユニオンビールの大煙突が聳へて見える。
 豫て佐上老を以つて、先方渡邊重役まで見學のお願がしてあつたので、一行が同工場に着いた時には事務の方が門前で御待受け下さると言ふ御歡待にまづ恐縮した。カツトの寫眞正門右手に尖つた屋根は門衛である。この床に數打のビールが置いてある。ハハァ宿直殿がと獨り合點すれば、成程、「煙草のむべからず」のノーテイスは大きく目につくがビールの事は書いてない。ではと仁瓶氏の御案内で出掛ける。何んか作業場で落ちかゝるといけませんから帽子を被られてはとの御注意に一同製紙會社員の膽を見ろと許り、なあに平氣ですと見得を切る。たゞ佐上老と菊池君丈は慌てゝ門衛まで引返して被つて來た。菊池君は買ひたてのパナマを殘すに忍びないのである。門から正面事務所と覺しき建物の前、久邇宮樣御手植の松を左に折れる。そこで目につくのが、空地に積まれた一面の壜の山である。王子うち の工場で言へば原木の山である
が、あれ程ボルユミナスな感じは勿論い。
まづ仕込室に昇る。
 ビールの仕込作業を一口に言へば大麥の芽を原料として麥芽糖を造る事である。粉碎機で麥芽を碎いて溫湯と一緒に糖化槽にいれてかき混ぜる。溫度は四十度から五十二度。するとどろどろの飴湯の樣なものになる。つまり麥芽の中のヂアスターぜの作用によつて澱粉が分解して麥芽糖になつた理であつ。但し澱粉は全部分解される理ではない。適量のデキストリンと言ふもの殘して置く。其の量の多寡によつて黑ビールと淡色ビールが分れる理である。この麥汁を濾過槽に移し、麥芽の粕が全く沈殿して清澄となつた時煮沸釜に入れてホツプと碎米をまぜて煮沸する。煮沸釜と言ふのは徑二間許り。磨き立てた銅釜の上部がコンクリ―ト床の上に三尺ばかり出てゐる。天窓と言つた具合の戶口を明けて覗くと暗い。暗い中に一尺幅の梯子があるが先は見えない。


 ホップと言ふ言葉が出たが、扨ホップとは何んだときかれると知らない人が多い。これは一種の蔓科の植物で、一丈餘りの背丈になる。地域的には北半球の溫帶地方北緯四十度から六十度に至る地方。亞細亞の原産である。匈奴の歐洲侵入と共にヨーロッパに傳來したと言はれてゐる。雌雄異株と言ふ風變りな植物で醸造用には雌花丈が使はれる。初秋の頃雌花を摘み取つて低溫乾燥の上、壓搾して暗い所へ貯藏して置く、ビール特有の苦味をつけるのは主としてこのホップであるが、元來は麥酒の防腐劑として使はれたのがはじめである。時代は八世紀とも言はれるが正確には一〇九七年に麥酒醸造の爲にホップを使つたと言ふ記錄がある相な。一體に麥酒はアルコール分が少いので腐敗し易い。是を加へる樣になつて大變よくなつた。所でホップの有名
な産地はドイツとチエツコスロバキヤである。我國では北海道と長野邊に試作の程度にあるにはあるが、まあ無いと言ふに近い。一朝輸入が止められたり、あちら樣で賣らない等と言はれた日には日本國民は、甘いビールも飮めなくなるのである。ビール黨にはホップ栽培も亦非常時局の一重大問題ではある。
 話を戻す。先刻の麥芽汁からホップの槽丈を濾過し去り冷却機に入れて冷たくするのである。
 ふと仕込室の壁間を見上げると神棚がある。神棚は敢て怪しむに足らないが、ユニオンビール二本が供へてあるのが珍である。其の日其の日のお初物を差上げるのだ相だが神酒徳久利に比べて如何にもデカデカした氣分が、ビール大明神鎮座ましますと言ふ感じだ。御神體は聞き漏したが近代味の多いお方には違ひない。
 扨冷却された麥芽汁は醗酵槽に入れられて麥酒酵母が加へられる。酵母中の酵素チマーゼの作用によつて麥芽糖はアルコールと炭酸瓦斯に變化する。これがつまり醗酵である。醗酵の進むにつれて麥汁の表面には次第に眞白な泡がうづ高く盛り上る。三四日で醗酵は最高潮に達し、十日目邊りに表面に褐色の泡蓋が浮遊する丈となり、これを十二度から四度三度まで溫度を下げて貯藏庫に入れる。この時既にビールはビールであるが、未だ苦くて飮めるものではない。零度の低溫中に冷藏して、三ヶ月。この間にアルコ―ルと炭酸瓦斯は程よく混和されて芳醇無比のものになるのである。
 殘念乍ら我々一行はこの醗酵室には入れて戴けない。大きな棟を見上げ乍ら素通りして貯藏槽から樽詰めする所を見せて貰ふ。些さか溫氣にうだつた、一行はこの樽詰室に入つて蘇生の思ひである。攝氏の三度四度と言へば常住には寒くてやり切れまいが、一歩屋外から室内に入つた感ぢは正に轉轍の鮒雨を得ると言つたものがあつた。
 樽詰の原理は簡單である。大きな貯藏槽から管を以つて生ビールが引込んである。管の栓をひねれば例の中脹れの樽にジュージューと許り、またたくまにビールが充滿してしまふ。この部屋の觀物はそれではない。觀物に非ず嗅物なのだ。出來たての生ビールの芳香がガランとした建物に馥郁と立籠めてゐるのである。一行の中下戶の靑木、栖原、兩君も思はず、鼻を天井に向けてヒクヒクやる。一方の壁に人一人の通へる程の扉口がある。何卒と言はれるまゝに一人一人首をすくめて入る。つまり先刻說明濟の貯藏タンクである。直徑吾人の三倍位、長さ之に適ふ大タンクが、二百五十三個竝べてあると言ふ。石にして三萬三千石である。醗酵した麥酒はこゝへ送られて零度以下の溫度で保存される。
 汗ばんだシャツが冷たーくなつてピチャピチャと背中にひつつく。靑木君も流石に休む間のない扇子をピタリと疊んでしまつた。
 此處で四十日及至五十日置かれてゐる中に零コンマ五四パーセントの炭酸瓦斯が溶け込むのである。先刻入つた所で樽に詰められてゐたのは丁度其の出來加減のものである。背筋がゾク/″\するので這々に穴倉を出て例の芳香立籠むる部屋を去り難く觀察する。徑一尺五寸位厚さ一寸位の白いフカフカしたものが積重ねてある。これでもう一度ビールを濾過するのだ相だ。これはパルプと三十パーセントのアスベストで出來てゐる。金属製の蛇腹の樣な仕掛の中へこの圓盤を竝べて、六十封度の壓力を加へる。ビールはじくじくとこの中をにじみ抜ける。幸福なバルブ!。と誰かゞ嘆聲を洩した。紙にされてしまふ仲間もあるのに。戶外に出て餘りにも暑いのに悲鳴をあげる。どつと許り瀧なす汗である。靑木君の扇子ではもう追付かない。麥酒製造の工程からは後先になるが次に製麥作業を拜見する。麥から麥芽(もやし )を造る作業である。溫度の調節が困難なので作業は九月から五月までのため、今日はガランとした部屋に、空釜や空樽を見て實況を想像するに止まつた。
 麥酒を麥から造るのは誰でも御存知だが、大麥に限ると言へば、はゝあ位の返事になる。昔は製麥業と醸造業とは別々だつた。我國でも最初は海外から麥芽を輸入して居つたが今では各國共この作業は各醸造會社の大事なものになつてゐる。ホップと違つてこの植物は世界のどこにでも生へる。但し大麥ならどれでも好いと言ふまでには行かない。北海道へ行くと麥にして穂の垂れてゐるのがあるがこれがシバリ―種と言はれるもの。穂の垂れないつまり直頭大麥と言ふのは麥稈强剛風力に堪へる。我國の樣に風害の多い土地柄に向く。この種のものがゴールデンメロン種。皮殻が薄く粒が大きい。出來る丈多量のエキス分を得る樣に改良されたものだが産地は栃木、埼
玉、千葉、茨木、神奈川、山口、京都の諸縣で栽培してゐる。大麥に限ると書いたが、これは我邦の事で外國では大麥丈のものもあり、燕麥、ライ麥、小麥等を使ひ又玉蜀黍をまぜる樣な場合すらある。
 扨麥芽をなぜ造るかと言ふと、大麥の澱粉そのまゝの狀態では醗酵に適さないので、發芽作業によつて大麥からヂアスターゼを生産しこのヂアスターゼの力を借りて澱粉を麥芽糖に變化させ、醗酵に都合のいゝ仕樣と言ふのである。まづ精撰した大麥を浸麥槽に入れ、約二日程水にひたして充分水分を吸ひ取つた所で、發芽鑵の中に入れる。十四度から二十度の溫度で八日程置くと發芽する。この芽はまだ水つぽくて腐り易いから乾燥室で二日程水分を切る。この乾燥の溫度加減が大事なので、出來上つた麥酒の味は此處で決定すると言つても過言ではない。乾燥を終つた麥芽は除根の後、貯藏室で貯藏される理である。
 玆で一寸水の事に觸れる。一般酒類の醸造に水の關係深いのは周知だが、麥酒工場でも水の吟味は矢釜敷しい。ミユンヘンやビルゼンの麥酒が世界的に有名なのも主として水の性質に原因する事は否めない。獨逸ミユンヘンの水では黑ビールを造らざるを得ないのであり、英國バートンの淡色エール。墺國ビルゼンの淡色ビール。それ/″\に地方地方の水質の爲でもある。獨逸の一醸造學者の言を借用すると麥酒のタイプは突然發生したものではなく事情の總てが之を誘導したものだと。
 餘談になるが櫻正宗の初代山邑太郎左衛門と言ふ人の醸造庫は兵庫縣西の宮と魚崎にあつたがどうしても西の宮の酒が良い。杜氏をかへて見ても矢張り結果は同じである。それでてつきり水のせいだと氣がついて、仕込水を樽詰にして魚崎に運んだら果していゝ酒が出來たと言はれてゐる。この工場では二本の掘抜井戶。六百尺から七百尺の深さのものから一晝夜に二萬石位を汲み上げる。工場長の話では現今では水の成分も詳細に研究されて何處ででも望み通りの水が人工的に加減出來ると言ふことであつた。
 これでビールは愈々出來たがこれでは些さか化學臭が强くて飮み難い。この親しみ易い四合壜詰にはどうしてやるか。それをこれから見る事にする。一行が製麥室を出て壜詰工場へと歩き出すと俄に一天かき曇つて大雷鳴轟くよと見るまに大粒の雨がやつて來た。佐上老は去年のカンカン帽だからそれでも裕然と歩を進めてゐるが菊池君ときては悲慘である。買ひ立てのパナマを上衣の下にかくして小走りに行く樣子は、大王子の社員らしくない。ともあれ壜詰工場に辿りつく。
 構内に積んである壜の山。ビールもあればサイダー、シトロンもある。屑屋が買ひ集めた古ものもあれば製壜工場からじかに來たのもある。これが一樣に幅一間半ばかりのコンベーヤーにきつしり載せれれてトコトコ/\足踏宜しく苛性曹逹の熱液の中に沈んで行つて消毒殺菌される。この操作の次に水洗ひされて、肉眼に止る汚れがなければ壜は清潔と認定されるのである。但し認定の關門には一人の専任女工さんが頑張つてゐて次から次へと送られてくる壜を電燈の光に透してじーつと睨んでゐる。我々が近寄つてもビクともしない。無念無想の體に壜のお尻を睨んでゐるのは悲壯である。壜と言ふ奴が手のない人間樣に似てゐるので、見てゐると滑稽でもある。立つたり寢たりしてヒヨコ/\とコンベーヤーを動き廻つてゐる中に、例の冷い貯藏室か
ら來てゐる管の下まで來るとジユーとビールを詰め込まれる。ポーンと王冠を被せられてチヨイ/\とレツテルを貼りつけられる。諜叛氣のあるビールは詰められてから破裂する事があるので、ビールが納まつてゐるかどうかを確める女工さんは異樣な針金製のお面を被つてゐた。お化粧の濟んだビールは例の深編笠を頭からすつぽりかぶつて箱へ。そして街頭へ。である。
 この工場で外にはサイダー、シトロンを造つてゐる。ビールの工程を縮めたものと思へばいゝ。まづ純良な水を一旦濾過した上更に圓筒形の素焼の濾過機で充分にこして純粹無菌とした上で攝氏零度に冷却。炭酸ガスを飽和させる。炭酸ガスは六十封度の壓力で水に融け込むのである。これがつまりプレーンソーダだ。シロップを底に二糎ばかり入れた壜にビールの場合と同じく、順送り順送りにこのソーダ水がつめ込まれる。一度つめたビンの瓦斯漏を檢査する爲に四十二度の溫湯の中を十分間とほされる。四尺幅、一間半ばかりの湯槽の底をゴト/\とサイダーの壜が這ふ。彼岸に上陸すると忽ち三ツ矢サイダーのレッテルが貼られてしまふのである。
 更に王冠工場を一瞥する.あのビール、サイダーの栓である。これは豫め模樣をつけた三尺幅四尺位の錻力の板を二臺の機械でどん/\打抜く。この打抜かれた型の中へ、これも豫め圓型に切抜かれたコルクを詰めて行くのだがこの機械が六臺ある。一臺一日十五六萬個造るとして能率のいゝ日には百萬個にも達する相だ。それでも女工さんが例の栓型を笟に入れては、この機械の上につき出た如露樣の入口に注ぎ込む具合は近代味に乏しい感じがしないでもない。
 これで一通り工場も見學し終つた二時間である。それから應接間に招ぜられて、立木工場長から出來たての生ビールを御馳走になりビール漫談を伺ふ事になる。
   ×      ×     ×
 麥酒の起源を尋ねると亦酒の起源にまで遡らなければならなくなる。東西を通じて酒の起源は大抵神話と結びついた傳說があるのは、酒其のものゝあらたかな事を示し得て妙である。
 エヂプトではオシリス神が麥から酒を造る事を敎へたと言ひギリシャではバッカス神が葡萄酒の製造を敎へたと言ふ。本朝では素淺雄尊が濫腸の樣にも言はれるが小名彦名尊、木花咲耶比賣等が居られる。支那では民間に下つて禹の時代、四千年も昔であるが儀秋が初めて、酒を製し禹に献じたともあり、又或る書には杜康が酒を發明したともある。我國で酒造の頭司に杜氏と言ふ文字を用ふるのは之から起つたと言はれてゐる。
 麥酒の發明は埃及人であるかの樣に傳へられてゐたが象形文字などの研究から、五千年も前既バビロン人が麥酒を造つてゐた事が明になつた由である。現今發掘されるパピルスに麥酒の記號がありこれをヘクアと發音したと言ふ事が研究されてゐる。とまれ埃及から起つた麥酒は民族の移動と共に、アルメニアを經て漸時歐洲各國に擴まつた。けれ共南歐諸國では葡萄酒がよく出來るので麥酒を踐民の酒だと輕蔑してゐたらしい。要するに埃及の麥酒はゲルマン族により傳承された事になる。獨逸人の祖先はヒマラヤ山脈の北方から次第に中歐に遠征を試みて來た頃、常に大釜を携帯して麥酒を造り、且つ飮み且つ戰ふと言ふ有樣だつた相だ。當時の盃は野牛の角なのが主たるものであつたが、ベルリンの古代博物館研究所の發表によると、其の古代の角杯の殘粕を分析すると明に麥酒をのんだ痕蹟がある。ゲルマンの祖先達が民族の大移住を
やり乍ら獨逸の森林地帶に陣取つて其處で後生大事に持運んで來た大釜で麥酒を造る。饗宴を開いては角杯で呻り放歌亂舞してゐた有樣が髣髴として眼底に浮ぶではないか。一七七七年フレデリック大王が「麥酒珈琲令」と言ふものを發布した。當時獨逸に流行してゐた珈琲の爲に正貨が海外に出るのを防ぐ目的で獨逸軍の傳統的强さはビールによつて養はれた爲だと警告したのは有名である。中世に於ては學問が殆んど僧侶の手で維持されて、麥酒の醸造の如きも僧院内で研究された。ビールへホップを加へる事を發明して麥酒の守護神の如く崇められてゐるガムプリヌスも亦これ等僧侶の一人であつた。醸造法としては古代の上面醗酵麥酒に對してバイエルンで底面醗酵麥酒が臺頭して近世麥酒隆昌の革命を爲した。併し麥酒の本質、卽ち糖化した穀物に水を混ぜてアルコール醗酵をさせると言ふ
點に於ては今も昔も變りはない。それでは麥酒とさへ名がつけば味にAもBもないかと言へば大ありなのである。英國と獨逸では製法の細目に及べばまるで違ふし從つて製品にも天と地との差異がある。同じ國内でも醸造場によつて又まるで違つたものになる。ワイスビールの樣にあつさりと清涼飮料水の樣なのもあり、ミュンヘン、ピルストナー等はぐつとコクがある。ランビックビール等は酸味が强くて風變りだと聞き及んでゐる。アルコール含有量を較べて見てもワイスビールの二コンマ六パーセント。ピルスナーの三コンマ五パーセント、ベルリン黑ビールの三コンマ九パーセント。ミュンヘンビール三コンマ二パーセントと言つた相異がある。
 我國に初めて麥酒が渡來したについては的確な資料がない。安政元年三月アメリカのペルリ提督が幕府に麥酒を獻上した。當時の文献によると獻上品目に「アメリカ産の酒三樽」とあり說明に「土色を呈しおびたゞしき泡を立つ」とある。「横濱開港史」と云ふ書物にも「眞黑色にしてしぶく水氣あり」と出て黑ビール又はスタウトを指したと見られる文句がる。「馬のいばり樣の苦がい酒」と言つて顰蹙したらしい批評もあるが、「魔法の水」とか「天國に遊ぶ如し」などゝ賞讃したものも見える。
 醸造については蘭學者川本幸民が外國の
書物から自家用麥酒を初めて造つたのが嘉
永六年であつたとされてゐるが幕府の通辭
としてペルリと會見し初めて黑船でビール
を御馳走になつてから思ひ立つたとも言は
れてゐる。明治に入つてコブランドと言ふ
米國人が横濱でキリンビールの前身天沼麥
酒を發賣したのが明治四、五年の頃である。
 横濱は山手町天沼にスプリング・バアレ
ー醸造所を創立し天沼池の清泉を汲んで醸
造したのである。當時ビールは大和町の調
練所に通ふ外國駐屯軍人や本町、山下町邊
に居留の外人にとつては、なくてはならぬ
慰安の一つであつたと想像するに難くない。
はじめはこの麥酒に酒名がなく俗にビヤザ
ケと言はれ後年天沼ビール、又は天沼ビヤ
ザケと呼ばれて他品と區別されて居た。後
日談になるが明治十八年ジャパン、ブリユ
ワリー、カンパニー(有限責任日本醸造會
社)と言ふのが組織されてこの天沼のスプ
リング、バアレー醸造所を譲り受けた。こ
の日本醸造會社の創立者の中に後藤象二郎、澁澤榮一、大倉喜八郎等の名が見える。キリンと云ふ名は莊田平五郎が名付親だと言はれてゐる。支那の麒麟である。首の長い長太郎さん一族ではない。キリンビールが始めてハワイに輸出された時キリンがクリーンに似てゐるのでクリーン、ビール(清潔ビール)だと言つて斷然賣れたと言ふ話がある。
 關西では明治五年に澁谷庄三郎と言ふ人
が澁谷ビールを賣リ出してゐる。初期の輸
入としては明治のはじめ、英國製のバーン
ビールと言ふのがある。ついで歐洲産米國
産のものも入る樣になつたが、はじめは外
國人相手のものが、日本人の嗜好にも投ず
る傾向があつたので明治二十年頃には其の
數量は八九千石に及び、價格四十萬圓を越
へる有樣であつた。ともかく明治の先覺者
達が大いにモダン振つて鹿鳴館の夜會等で
其の苦がさに顔をしかめ乍らも無理にギア
マンのビールを呻つてゲップを吐いたと言
ふ事等は滑稽千萬である。
 日本に於けるビールの興替も可なり激しく現キリンビールの前身たる天沼ビヤザケから名前を列擧する丈でも、三つ鱗ビール、開拓使麥酒(札幌麥酒)櫻田麥酒、東京麥酒、手形麥酒、帝國麥酒、日の出麥酒、淺田麥酒、惠比壽麥酒、旭ビール、丸三ビール、加富登ビール、大黑ビール、櫻ビール、カスケードビール、オラガ麥酒、高砂ビール、蛇の目ビール、ライオン麥酒、富貴麥酒、日進麥酒、更には横濱のキラク麥酒、信濃麥酒、大和麥酒、軍艦麥酒、富士麥酒、函館麥酒、サクラ
麥酒等ビンから錐まで數へれば限りがない。現今ではビール界の統制成つて、キリン、サツポロ、エビス、アサヒ、ビタミン、ユニオン、オラガ、サクラ、スピート、ハマとこれ丈のレツテルが内地で見られる理である。
 固ぐるしくなるが本年の一月から六月に瓦る醸造高を竝べて見る。

大日本ビール   四九五、一四四石
キリンビール   二一六、四一三石
サクラビール    五八、三七六石
オラガビール     六、四七〇石
 計       七七六、四〇三石


これで日本の消費量は一人當り年に約三立と言ふ事になつてゐる。但し全國をなべての話で、都會にくるとこの數字がグツと昇る。大阪では九立半、桝目に直して五升一合がものになる。獨逸の平均五十二立に比べると殘念乍ら少いがまあ有史以來からそれでやつて來た人民共だから敢て我國民の恥にもなるまい。
 工場長は頻りに盃を傾け乍らビールの効能を說かれる。
 ビールは喉を丸くしてダーツと一氣に飮まなければいけないと言はれる。御尤もである。そこで現在使用のビールコップは一般に日本人には少し大きすぎると言ふ御說に成程とうなづく。ビール七分泡三分としてこの上層の泡こそ實は下のビールの炭酸ガスを逃がさない爲に重要な役目を務めてゐるのである。氣の抜けない中にググと飮んで一應沈思の形を執る。腹にしつくり落付いた所で又一杯ぐつとやる。溫度なら攝氏の十度。井戶水の程が可しとされてゐる。次に榮養價はどうか。まづビールを分析して御目にかけるとアルコール分と蛋白質、砂糖、デキストリン、燐酸それに加里となる。一立のビールのカロリーは四二五になるから、卵なら五個六個。脂のない牛肉なら五〇〇瓦喰つた事になる。獨逸人丈が世界の傾向に逆行して不健康者が減つて
行くのも一に麥酒常用の賜だそうだ。
 こゝの工場長位になると下痢でも仕樣ものなら、餘物を一切やめて、ビールを二三本やつて一晩ねれば癒つて了ふと言ふから恐しい。流石の菊池君も僕などは愈々下つてしまふと呆れ返れば工場長にそれやビールに馴れてないからですよとあつさりやられた。
 ビールは税金をのんでゐる樣なもんだとよく人が言ひますがと誰れかゞ恐る/\質問する。さあと工場長は一寸當惑の體でもある。まあ御想像に委せてときませうと呵々されて濟ましたが、筆者の手帳には斯う出てゐる。四合壜が五錢也位、王冠が二錢也位、税金が十四錢也位、中味が四錢也位。これで二十五錢也となり、其他に數多のの製造費が刻込まれる。成程ビールは安い。併し乍ら安くのめないと言ふ氣がするかしら。
 一同すゝめられるまゝにいゝ氣になつて試飮を重ねてゐる中に五時になつた。そこへ工場から人が來られて停電の爲に作業がとまりましたと注進される。點燈を持つて殘業すべきかどうかの御相談とよめた。なあに今日は切上げ樣とあつさり裁斷を下される。職工數は三百。六割は女工の由。作業は朝七時から午後五時までの一部制。大抵近邊のものが多いし、特別の福利施設等はないと承つた。ビール會社の女工さん達はお嫁入が他より早いとの事である。
 丁度我々がおいとまをして立上つた頃例の停電で少し早めに作業を濟ませた女工さん達が小ざつぱりと着替をしていそ/\と門を出て行く所であつた。(毛内義胤)

(「王友」第十四號 
   昭和十二年九月二十八日發行より)


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【百年ニュース】1921(大正10)5月11日(水)



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