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無 軌 道 文 章

           本社 菊 池 與 志 夫

     妓   生

 遠く故國を離れて滿鮮の街から街へ、呉服行

商をして歩るく日本の靑年があつた。京城へ來

る迄には、思ひ通りに商ひがはづんで、ふとこ

ろも相當豐富であつたから、一夜旅の疲れの憂

さはらしに、或る靑楼に上つたが、その夜席に

持した美しい妓生の歡待を忘れがたく、そのま

まそこに足を止めて、身も心も現つなに、只夜

の來るのが待遠しいだけであつた。

 さういふ幾夜かが續いた或る晩、彼は柔い女

の腕に抱かれ乍ら、次のやうな囁きをきいた。

 「わたしはあなたを誰れよりもいとしく思ひ

ます。いつそのことに、もうここを離れずに、

ご一緒に暮らしませう。けれども男心は定めな

いものときいて居ます。若しほんたうにあなた

が、わたしを可愛いいとお思召すのなら、どう

かその證明あかしを見せて下さい・・・」靑年は天にの

ぼる心地で、ふるへる胸を抑へ乍ら卽座に答へ

た。

「あなたのためならばどんな辛いことでもいと

ひません。たとひ生命いのちをとられるやうな目に會つ

ても・・・・」

「それほど迄に仰有つて下さるあなたに、誠に

申上げにくいことですが、どうかわたしを愛す

るしるしに、あなたの前齒を一枚抜いていただ

きたいのです。」

「おやすいことです。」

 翌くる晩、彼は女の望み通りに前齒を一枚抜

いて妓生に渡した。さうして二人に樂しい幾日

かが過ぎて行つた。が、その内に彼の裹中は日

每にやせ細つて了つた。持つてゐた金のすべて

を使ひ果した靑年は、誰れ一人賴る人とてもな

い、遠い旅の空で、これからの月日をどうして

暮らさうかと思ひ惱んだが、これといふいい分

別のあらう筈がない。しかし女の心を思ふと

き、何もかも忘れ果てて、そのいとしさに溺

れ、その變らぬもてなしに醉ひ痴れた。

 然し遂に彼の貯へが一錢もなくなつて、あち

こちと、金の才覺につとめても、どうにもなら

ぬ日が來た。

 或る晩、彼が重い鎖で縛られたやうな足をひ

きづり乍ら、女の家へかへつて來た時、そこに

他の男と笑ひさざめいてゐる女を見た。

 彼は何も考へるひまはなかつた。ただカァッ

となつて全身が憤りにふるへた。

「お前はわたしにあれほど固い誓ひをしたでは

ないか。お前のためにわたしはもう二度と日本

の土もふめなくなつて了つた。わたしの將來を

目茶目茶にして、お前の心と取替へたのだ。し

かもわたしは、お前の言ふままに大切な齒まで

抜いてわたしたではないか・・・」

 さう云ひ乍らも彼は裏切られた口惜しさに聲

をあげて泣くのであつた。

 女は彼の方を見向きもしないで微笑を浮べ答

へた。

「そんなに抜いた齒が惜しいのなら、いつでも

返してあげる。あの簞笥の二番目の小曳出をあ

けてごらん。多分その中にお前さんのも入つて

ゐる筈だから・・・」

 しどけなく寢そべつたまま女が指す簞笥の曳

出に、彼はいきなりとびつきざまそれをあける

と、中でガラガラと音がして彼の眼の前に現は

れたのは、ちょつと見ただけでも、二十枚より

尠くない男の齒であつた。


     フアツショ

 少々ばかり骨つぽいところがあつたり、或は

又常に强硬な主義主張を持つてゐたりすると、

人は直ぐ「あいつはファツショだからな」と評

し、當人もそのつもりでゐるのが當今の流行で

ある。

 淺學なる僕は不幸にして、ファッショなる語

の眞實の定義を知らないが、ムッソリニー氏等

の言行から想定して「あらゆる個人の利害を無

視或は犠牲にして、先づ國家社會の利害を第一

とする觀念又は行動」であると考へる。例へば

この世の中から火事が全然なくなつたなら、自

分達の天職を失ふことになるにも不拘、消防署

員達が眞劍な態度で「火事なし日」を示威する

が如きは、ファッショの代表でなければなら

ぬ。

 世の多くのファッショと自認する諸君の中

で、この消防夫以上のファッショが果して幾人

あるだらうか。

     錯 覺 病 者

 伊藤凍魚氏の「樺太民謡」をコロンビアのス

タヂオで吹込んだ時のことである。指揮は編曲

者の奥山貞吉氏で數回のテストも濟んで愈いよ

本吹込にかかつた。タクトが振られ第一回が始

る。歌詞は五節だが時間の都合で四節だけ吹込

むのである。が、その半分も進まないうちに中

止のシグナルが出た。フリユートが低すぎると

いふのである。第二回目は兎に角お終ひ迄演奏

されたが、合唱の効果が面白くないといふので

又やり直しである。歌手の小梅君も伴奏のオー

ケストラ連もちょつと緊張した。

 第三回目は前奏もいいし、歌もなれて來て、

第一節が濟み、第二節も非常にうまく行つたか

ら、今度こそは大丈夫だと思つた。續いて第三

節もことなく終ると、そこでコンダクターの奥

山氏は何と思つたか、ピタリとタクトを止めて

了つた。すると伴奏も殆んど一秒の異ひもなく

それに和したのである。あともう一節と意氣込

んでゐた小梅君は、一演奏濟んだつもりでホツ

としてゐる奥山氏に「あら、もう一つあるぢや

ありませんか。」と駄目を出したので、「あ

つ、さうだつた。」と頭をかき乍ら、オーケス

トラ諸君と顔見合せて大笑ひになつた。

 「それにしてもまあ、よく揃つて止つたもの

ですわねぇ・・・・」と小梅君は感心したやう

に戯談を云つた。奥山氏はもう相當の年配では

あるが、耄碌する程でもないし、又十二三人の

伴奏者も、一人一人樂譜を見てゐるのだから、

いくらタクトが止つたからといつても、一人や

二人ピーとかスーとか、きりの惡るいところが

出て來さうなものである――どうもへんだとい

ふことになつたが、誰にもそのわけは分らなか

つた。

 「ぢやあこんどはひとつのもんほでゆきませ

う。」と笑ひ乍ら又タクトが振られて、漸くの

ことで吹込みを終へたのである。

 これは或は錯覺のためのみだとは云へないか

も知れないが、多くの人が氣を揃へて錯覺にお

ちた珍らしい實例である。

 僕は生れつきがさつな慌て者で、そのくせ會

社で仕事をしてゐる時でも、道を歩るいてゐる

時でも、いろんな考へが頭の中に充滿し、然も

雜然と交錯してゐる。

 他人と話をしてゐる時でも、先方の云ふこと

を聽き乍ら同時に他の事を考へてゐる。向ふが

勝手に饒舌つてゐるうちはそれでいいが、何か

僕に質問の用件をきり出したやうな時に、こつ

ちはうはの空できいてゐるんだから返事をしな

い。すると向ふはへんな顔つきをして、もう一

度念を押すやうな大きな聲を出す。そこで始め

てびつくりして「へぇ、何んですか」とあべこ

べにこつちから聞き返へすことが度たびあつ

て、あとで氣の毒な氣がするのである。神經衰

弱的呆然さとまではゆかないが、惡るいくせで

あるから改めやうと思つてゐる。錢勘定でもさ

うである。十圓もらつて五圓五錢お剰金を出す

ところを五錢出して平氣な顔をしてゐたり、五

十錢銀貨のつもりで一錢銅貨を出して濟してゐ

たりする。金錢を扱ふことが職業になつたらそ

んなこともあるまいが、さうでなくとも直接他

人に迷惑をかけることだから、大いに戒心すべ

きであると思つてゐる。度量衡や貨幣の換算計

算でも、掛けるのか割るのかわけが分らなくな

る。人の名前でも例へば村岡花子だか、花岡村

子だかこんがらがつてくると、いくら考へても

分らない。これは頭が惡るいせいかも知れない

が困つたくせである。

 いつか每日通ひなれた省線の改札口を通る

時、定期券を出すつもりで、ポケツトから時計

を出して見せたら、改札掛が苦笑して「もし、

もし、」と云つたのでハツと思つて内ポケツト

へ手を突込んで、今度は紙入を出して了つた。

そんなことがあつてから、停車場の出入にはズ

ツと手前から定期券を手に握つて行くことにし

てゐる。するとそのくせがついて了つて、その

後、共同便所へ入る時に定期券をひよいと出し

て、すれちがひに出て來た人に大聲で笑はれて

始めて氣がついたことがある。こんな間抜けな

ことをするのは僕一人かと思つてゐたが、いつ

か徳川夢聲の漫談をきいたら、これと同じやう

な話をしたので夢聲はゑらいと思つた。

 その話といふのはこうである。

 停車場の改札口を無切符で通る方法を考へた

男が、わざと悠々と通り抜け乍ら、チヨツキの

ポケツトから懐中時計をニユウツと出して見せ

ると、改札掛は何んと思つたか、頭上の大時計

を仰いで頷いたので怪しまれることもなく、そ

のまま通つた。降りる時もその手を使ふと、こ

んどの改札掛はご叮寧にも、自分のポケットか

らも大型のニッケル時計をニヨキツと出したの

で、易やすとフリーパスしたといふのである。

 この話などは普通の人がきいたのでは、恐ら

く夢聲の空想的漫談だと思ふであらうが、錯覺

病者の僕はそれをきき乍ら「成程、なるほど、

ありさうなことだ。」と思つて、獨りで悦に入

つたほどだから、餘程どうかしてゐるやうであ

る。

 これも一種の幼時錯覺だらうが、子供の頃の

へんな記億がある。僕は八つの秋、東京に上つ

て牛込中町の伯父の家に住んだことがある。そ

の頃から本好きで、每日のやうに神樂坂の下り

かけの本屋へ通つて「幼年の友」の居催促をし

た。當時の神樂坂は今とちがつて勾配が急だつ

たのかも知れないが、その時はあの坂が非常に

高い山のやうに思へた。坂を上りきつて見下す

と、牛込見附の電車通りが、まるで谷底のやう

に下に見えた。見附を横切つて九段の方へ行く

道も、相當の急坂でその當時も兩側に柳が枝垂

れてゐた。その後十年たつて再び東京へ來たと

きに、まつ先きに神樂坂へ行つて見たが、その

時はもう昔感じたほど高い山ではなくて、普通

の坂に過ぎなかつた。

 もう一つは山口縣の長府といふ田舎町に住ん

でゐた頃、忍宮神社の境内に大銀杏があつて、

そこへ蟬捕りに通ふのに、非常に高い石段をあ

へぎあへぎ上つた記憶がある。家を出て右へ行

けば今いふ石段へ出るし、左へ行けばすぐ海邊

で、磯には大きな石の鳥居が立つてゐて、潮が

さすと鳥居の脚に波が打ち寄せてゐた。ところ

が先年三十年振りでその町へ行つて、いろいろ

と往時の回想にふけつたが、神社の石段は僅か

に十段足らずのもので、すぐその上には見覺え

のある大銀杏があつた。又その當時住んだ家の

あたりへも行つてみたが、恰度その頃の家は朽

ちて取こはされ新築が出來上つたところであつ

た。やはり見覺えのある古井戶がそのままであ

つたので、それから見當をつけて見ると、海へ

の道は右で、石段へ行くのには左の道へ出るや

うになつてゐた。當時の記憶と恰度反對であつ

た。

 七八つの頃のことで記憶ちがひがないとは云

へないが、幼時の印象は案外確かなものであ

る。それなのにどうしてこういふ違ひがあるの

だらうか。僕は混濁した今の頭から割り出し

て、僕には子供の頃から錯覺病があつたのかも

知れないと決めてゐるが、ほんとうはさうでは

ないと思ふ。背丈の低い幼時のことだから、そ

の眼の位置から考へれば神樂坂ほどの大きな坂

は、山のやうに見えたのだらうし、十段位の石

段でも、子供の足にとつてはその十倍にも感じ

たのであらう。道の左右の點は、海邊が埋立て

られたりして、餘程地勢が變つてゐるから、そ

のための違ひであるやうに思ふ。

     靑嵐莊觀菊會

 秋闌の一日、主人の丹精になる菊が見頃だか

らといふので、招かれて靑嵐莊の客となつた。

每年のならはしで客の集ひは十人を超へた。

 曇り日で、夜來の霧は終日地上にこもつて霽

れなかつたが、無風の靜かな午後であつた。菊

作りの經驗のない僕には、花のよしあしは分ら

なかつたが、長い月日の明け暮れを、手鹽にか

けて育てあげた苗木から、見事に美しい花を咲

かせた今、その歡びを吾れ人と共に分つ主人の

心持の温かさには、心打たれるものがあつた。

 主人の案内に随つて、葭簀をめぐらし、障子

屋根をかけた菊畑へ出た。大輪花では、玉鳳冠

(黄)、三重萃(桃)、吾妻鏡(金樺)、曲水

宴(薄紫)、黄金龍(金茶)、八重霞(桃)、

等々二十數鉢の名花が並べられ、尚小屋内の小

棚には小菊、浮龍(紫)、瑞光(白)、妙義山

(金樺)、天拜山(黄)等の小鉢を配して調和

の美化に努められて居る。

 然し僕は何によらず、人工美よりも自然美に

心をひかれる。菊などでも、人の意によつて奇

麗にまとめあげられた花よりも、晩秋の百姓家

の籬や、野道に咲きのこつた可憐な、野菊が好

きだ。だから折角主人の自慢の花をみせてもら

つても、花そのものには大して興趣を覺えなか

つたばかりでなく、心中ひそかに「黄菊白菊そ

の他の名はなくもがな」といふ句があるが、全

くその通りだといふやうなことを考へてゐた。

客として誠に申譯のない不心得者である。

 ふと見ると、菊鉢の上の市松模樣の障子屋根

の棧に一匹のはらみかまきりが止つてゐて、い

つまでもぢつと動かなかつた。近づいてよく見

ると、靜かに息をしてゐるらしく、そのたべに

大きな腹がかすかにふるへた。

 それは冬近い頃の虫としては妙に靑い色をし

てゐた。

 これは句になるぞと、やや暫らく一心に想を

こらしてみたが、遂にものにならず終ひであつ

た。

(十二年一月)


(「王友」第十三號 
      昭和十二年三月十五日發行より)




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