一錢亭雜稿 〔その一〕 ○藤田睡庵先生の憶ひ出○
藤田睡庵先生が永眠され
てから滿十年の歳月が流れ
恰度、七月三十日がその御
命日に當るといふ御手紙を
未亡人の美代さんから頂い
て、私は、無量の感に打た
れて居られる御遺族の心事
を偲び乍ら、先生在りし日
の事どもを回想した。
私を先生に紹介して呉れ
たのは、確か品川力君兄妹
であつたかと思ふ。今から
凡そ十五年程前のことであ
る。當時私は、今から考へ
ると不可解な、ぜに苔のや
うな厭世觀に捉はれ乍らも
一面、多少でも私に好意を
寄せてくれる人には、縋り
ついて一緒に泣きたいほど
の執着を感ずるといふ、一
種の偏質者であつた。それ
にも拘はらず先生御夫妻は
私に溫かい手を差し延べて
その頃、世田ヶ谷三宿にあ
つた先生のアトリエへ、煩
さく訪ねて行く私を、少し
も嫌な顔もせられず、心か
ら喜んで迎へて下さつたの
である。さうして彼是一年
後には、當時、土方與志氏
の家庭に在つて、同じく先
生御夫妻の知遇を得て居た
森友忍を、私の妻にすすめ
て下さつて、その媒酌の勞
迄とつて頂いたのである。
以來私は平和な家庭生活に
入り、往年の無賴の徒も、
平凡ではあるが、無益無害
なる一小市民として、穏健
な營みを續け、五歳で亡く
した子を加へると、十三歳
を頭に二歳を裾に、五人の
子供を惠まれ、聊かなりと
も國家に奉公出來るだけに
一變したのも、悉く、先生
御夫妻の御蔭であつた。
藤田睡庵先生は洋畫家と
して世に聞えた方であつた
が、私が三宿のアトリエで
始めて先生に會つた頃の事
を憶ひ出してみると、洋畫
家としての先生の印象は甚
だ稀薄である。先生は何時
も、竹藪のある、苔くさい
庭に面した廊下の一隅で、
硝子戶越に南面の日射しを
受け乍ら、長身の背を猫の
やうに丸めて、古新聞紙に
毛筆で字を書いて居られた
先生の書は、先生の風貌そ
のまゝな、枯淡な味ひ深い
もので、當時二十七、八歳
の若年のくせに、妙に老成
ぶつたものに興味をひかれ
るたちの私には、非常に好
もしく、魅力があつた。
軈て、先生の古新聞紙手
習の或る時期が過ぎると、
大小さまざまな鍋蓋を集め
て、その裏に字を書き、小
刀で彫つて、朱や黄や藍な
どの繪具を塗つた、先生の
所謂、鍋蓋彫に熱中せられ
た。この仕事には先生も餘
程心魂を打ち込まれたやう
で、それだけに作品の出來
榮も見事であつた。
雪の降りしきる或る日曜
日の午後、竹藪を崩れ落ち
る雪の音を聞き乍ら、私は
先生の背後に坐つて、黙つ
てその仕事を見つめてゐた
日の事などを思ひ出すので
ある。その鍋蓋は私も二、
三枚頂いて書齋にかけて朝
夕たのしく眺めてゐたが、
私の義弟にさういふものを
好きな者が居て、是が非で
も欲しいといつてせがむの
で、惜しみ乍らも呉れてや
つて了つたのは、先生に對
しても相濟まぬ事であつた
し、私自身としても後悔に
堪へないのである。
今、私の家にある、先生
の記念品は、先生が俳畫を
描かれて樂焼にした、一輪
挿しの花壺が只一つあるだ
けである。これは私達の結
婚後の或る秋の一日、先生
御一家と私の一家のものが
向島の百花園に遊んだ時、
偶たま先生の即興になつた
作品である。
先生の憶ひ出を書き綴つ
てゆくと、勢ひ、酒仙の俤
があつた、先生の一面に筆
が走りたがるが、私は單に
先生の酒の御相伴に預つた
に過ぎぬので、ここでは、
只、先生の酒は、若山牧水
氏の酒と同じやうに、いか
にも藝術家らしい酒であつ
たことだけを書くに止めて
置きたい。
藤田睡庵先生御夫妻は、
上述のごとく私にとつて更
生の恩人であつた。にも拘
はらず低俗なる私は、高邁
無比なる藝術家であつた先
生の心事を深く解せず、俗
務多端に追はれるに及んで
次第に先生の身邊から遊離
するに到つた。この事は私
の自覺せる惡性であつた、
地下に靜眠せられる先生に
對しては勿論の事、幼い二
人の遺兒を抱へて、想像に
餘る辛酸を甞められ乍らも
至難といはれる未亡人とし
ての婦道を立派に果された
美代さんに對しても私の罪
は萬死に値するのである。
藤田睡庵先生十年忌を迎
へた今、當時頑是無かつた
親代さん、貞代さんも美し
く成人せられ、軈ては皇國
婦人の大道を力強く發足さ
れるの日近きを思ひ、日本
婦道の鑑とも絕讃すべき、
親子御三人の前途多幸を祈
念しつゝ、私は自責の念に
堪へかねて、萬感交々と胸
を刺すのである。
―昭和十七年七月睡庵先
生十年忌稿―
(「柏崎」會報No.15
昭和十七年八月十五日發行 より)
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※藤田貞三(藤田睡庵)
父は藤田九三郎。大正13年7月17日に美代
さんと結婚。
洋画家であったがのちに俳画にも筆を染め
た。
昭和7年7月30日死去。
↑ 藤田貞三(睡庵)画伯作品集 絵葉書 (ネットの拾い画です)
ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵
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