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秋 ぐ さ (二)

  秋 ぐ さ (二)  
   ――續稿――  きくち・よしを


 山が動きはじめた。高原のあけ

ぼのは、いま深い霧のなかからや

うやく明けやうとしてゐる。あけ

がたの山氣さんきを寒ざむと覺江乍ら、

自分だちは野路をあてもなく歩る

いた。

―われわれのかぼそい愚痴をだま

 つてきいて呉れるのは秋ぐさぐ

 らいのものだ。なにも言はずに

 その秋ぐさの野に行かう。旅の

 仕度もしてゐないが、わたしの

 氣持にはふさはしい旅だ。また

 ひとつ寂しい、いい思ひ出がふ

 へることにもなるから。

 自分はさういふ旅ごころで、あ

のひろい高原のあかつきに咲きみ

だれてゐる月ぐさをいとしくなが

めた。そのゆめのやうに寂しいい

ろにまじつて、あのつゆ草の小さ

な花が、星ほどいちめんに咲きこ

ぼれてゐた。あさつゆの宿るあひ

だだけ、鮮かな空いろに咲くいの

ちの短いつゆ草の花もまた可憐な

花である。

 農家の古い壁のかたはらに咲く

向日葵の花も、豆の花も、花はこと

ごとく自分の心を寂しくたのしま

せた。ふたつのひろい野原のあひ

だを山の方へまつすぐに走る路を

ゆつくりと歩るき乍ら、自分たち

はいくたびもたちどまつて、霧の

はれてゆく山をみても、流れのほ

とりの野花の群れをみても、深い

溜息をもらした。

 ―われの身にしばしのひまもつ

きまとふ吐息のみなる心捨つべし

―とうたつたこの友だちも、日を

ふるままに深みゆく吐息のかずか

ずにいまの思ひはどうであらうか

 舊輕井澤の朝あけの街を山の方

へと歩るいていつた。みぎをみれ

ば碓氷の山々は朝霧の中からいま

めざたばかりである。ひだりを

望めば、赤嶽が爽かな日ざしを浴

びてぽつかりとうまれでたところ

である。淺間山の眠りは、灰いろの

雲のなかに、まだ滾々と深いやう

である。この碓氷の山なみと、赤

嶽や淺間山とのあひだは一望の高

原である。いふまでもなく輕井澤

の街は、あのひろい高原をよこぎ

るひとすぢの河のやうな街である

自分たちは、そのひとすぢの河の

うへを、ひょろひょろと歩るいて

いつた。太陽が山のうへの空には

つきりとのぼりきつたひととき、

あの高原に咲きみだれた月ぐさも

つゆ草も、まばゆいほど鮮かない

ろにしづもつて、露は黝づんでき

らきらとひかつた。

 ―さういふ可憐な寂しげな花が

あまりに燦爛とした、はげしい朝

の日ざしを浴びて、ふるへてゐる

さまをみると、ひとしほ哀切を覺

江るものである。たとへば息絕江

たひとのうへに、薔薇の赤い花び

らをふりかけるやうなものだから

―自分はそんなことを漫然とつぶ

やき乍ら、秋ぐさのひろ野をわた

る、あさ風の音に寒さを感じた。


―ひょつとすると、けふは芥川龍

之介氏に會へるかも知れない。

なんでも八月のはじめから、あ

の山の宿にきて原稿を書いてゐ

るさうだから。

―きてゐるにしたところで、こん

 な朝はやくからあのひとが散歩

 などをするものか。だいいち、

 この街の店がいまやうやく戶を

 あけたばかりぢやないか。藝術

 家がさう朝はやく起きて耐るも

 のではない。

―きみは自分が小說家で、朝寢を

 すきなものだから、さう言ふの

 だらうが、芥川氏だけは朝はや

 くから起きるひとだと思ふな。

 あのひとの書くものに、さうい

 ふ感じがでてゐるやうに思ふが

 僕はどういふものか芥川氏を好

 きだな。理屈つぽいところもあ

 のひとだけはいいし、それにあ

 のひとがおじぎをすると、あの

 名高い髪毛が、ばさつと垂れさ

 がつて、それから恰も獅子のや

 うにそれをふりあげる―あそこ

 が芥川氏らしくていいところだ

 と思ふのだ。

―へんなところを妙に好きなのだ

 な。

 自分たちがそんなことを話し合

ひ乍ら、やがて街をではづれやう

とすると、山の方からほがらかな

蹄の音がひびいてきた。馬上のひ

とをみれば尾崎行雄氏とその娘さ

んの雪香君である。自分はおよそ

政治家とか實業家とかいふひとだ

ちには、たとひそのひとがどんな

に世間の賞賛をうけてゐる天才で

あつても、一片の敬意をもはらふ

ものではない。自分はむしろ彼ら

の不純なる生活態度を輕蔑するも

のである。しかし乍ら、いまこの

深い樹林の繁みのすきをもれてこ

ぼれる、玲瓏とした朝の日光と新

鮮な山氣とを十分にたのしみ乍ら

靜かに馬の背にゆられてゆくあの

老人の颯爽たる乗馬姿を、路のほ

とりからみあげたときに、自分は

ふしぎにもその高名な老政治家の

風貌のどこかに、犯しがたい、或

る嚴かな神性のひらめきに似たも

のを感じたのである。政治家とし

て失意の生活をおくつてゐる彼の

潤ほつた。しかし異常な銳さをは

なつひとみに、あの高原の澄みとほつ

た秋の靑ぞらのいろが映つてゐる

のをみたときに、自分は彼に一味

の好意を傾けずにゐられなかつた

のである。

(越後タイムス 大正十四年九月廿七日 
     第七百二十一號 八面より)



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