信じること自体が力の源泉
「発禁になった本」などと言われると、気になってしまいます。
例えば、「GHQ焚書」などと言われたら、「戦後、アメリカにとって都合の悪い情報が隠蔽されたんだな?」、「本来、私たち日本人が知っておかなければならない情報ってなんだ?」などということが気になって、ついつい買ってみたくなります。
こんな世の中でもあるので、「発禁になったということは、世の中のタブーに触れてしまったのか?!」などという勝手な勘を働かせたりしまうわけです。
少し前のことですが、記紀(古事記・日本書紀)の解釈について、昔、発禁になった書籍というのを買ってみたことがあります。
「日本の古代史における、とんでもないタブーに触れてしまったのか?」
そんなことを思いながら、その書籍を読み始めてみました。
ところが、いくら読み進めても、そのような斬新さは感じませんでした。むしろ、原始宗教というものがいかに稚拙で、デタラメなものであるかを論じたうえで、そんな稚拙な宗教観に基づいて書かれた記紀というのは、真面目に解釈する価値がないと言わんばかりの内容でした。
ちょっとガッカリしました。ただ、この本を読みながら、本当に原始宗教というものが、そんなに稚拙なものなのか?という、まったく別のことを考えるきっかけにはなりました。
ぜーんぜん違う話に聞こえるかもしれませんが、藤子・F・不二雄さんの短編SF作品に「神さまごっこ」というのがあります。多分、ネタバレは困るという人はいないと思うので、ネタバレしながら進めます。
ここに登場してくる主人公は、まず神様セットというものを与えられて、神様になります。
彼は、何もない真っ暗な世界から空間を作り出し、そこに人間を作って、その世界の神様として君臨します。そこでは全知全能なので、彼はその世界のなかであらゆることをやってのけます。
しかし、しばらくすると、徐々に神様を信じなくなった人類にも飽きてきて、ほったらかしにしてしまいます。その間に、高度な文明を築いたその世界の人類は、自分たちの力ばかりを信じるようになり、神様を一切信じなくなります。
そのことに気付いてビックリした主人公は、その世界に降り立って、神様を信じない人類に罰を与えようとします。しかし、その罰が一切、発動されません。神様の力は、人類が「神様を信じる力」によって成り立っているため、人類が神様を信じなくなってしまうことで、主人公は神様としての力を失っていくのでした。
このストーリーで、最初の部分のような状態、つまり神様に力があって、人類が神様の力を信じていた時代が、おそらく原始宗教が成り立っていた世界だろうと思われます。
神様が神様として成立するのは、多くの人々が、それを信じていたからだということです。
ここで考えたいのは、神様を信じなくなった人類は、いったい何を信じるようになったのかということです。
今の時代で考えてみると、それはお金かも???
巨大利権に群がって、多数の命が犠牲になったって何のその・・・お金さえあれば、自分たちは幸せになれると信じる人々が、大勢いるように思います。
しかし、まさにこの動画にあるように、お金というものは、みんなが信じることによって成り立っているだけ、という言い方もできるのです。逆に言えば、みんなが信じなくなったら、お金(通貨)なんてものは、何の意味もないもので、貨幣はただの金属だし、紙幣はただの紙くずになってしまうということです。
この話には、まさに藤子・F・不二雄さんの「神さまごっこ」に出てくる神様に通じるものを感じます。実体がどうかではなく、人々が信じるか信じないかだけが、それに力があるかどうかを左右するというのは、とても興味深い話です。
そう考えると、多くの人々が自然などを相手にしながら、そこに神性を感じるような原始宗教を「稚拙なもの」と切って捨てるのは、ただの文明第一主義に染まった人類の驕りなのではないかと感じてしまうのです。
科学を否定しようというわけではありません。文明の発展も、大いに結構です。しかし、それに染まりきって、それだけが正しいとか、それこそが知性であるかの如く解釈してしまうのは、本当の意味で、人類の進化に繋がるかどうかは疑問です。
原始宗教があった理由などについても、太古の人たちの感性をバカにせず、真剣に紐解こうとする姿勢があってこそ、真理に迫ることができるのだろうと思います。そして、そのことによって人類の進化は成し遂げられるような気がしてなりません。
信じる力って、バカにできんです。