「群れない」生き方の方がよくね?
私が新卒で入った会社の部署では、海外から日本へ出張してくる役員の相手をするというのが、主な仕事のうちのひとつでした。役員が日本に滞在している間は、部署の人間が、朝から役員が宿泊しているホテルに行き、そこで朝食を一緒にします。
私は、気になって課長に聞いてみました。
「なんで、朝ごはんを一緒にしないといけないんですか?」
その時の課長の答えは、こうでした。
「だって、一人で朝食をとってたら寂しいでしょ?」
(へぇ・・・そうなんだ。出張先で一人での朝食は寂しいんだ)
当時、ほとんど出張なんて行ったことがない自分には、よく分かりませんでした。でも、「そういうものなのか」と思うほかありません。
その後、自分もいろいろな出張に行くようになります。今でも、出張はあります。そうなってから思うのは、「朝食、絶対に一人の方が楽しくね?」ということです。
どこかに行って行動をするときなんて、よほどのことがない限り、一人の方がいいです。自由がたまらんです。出張先での朝食なんて、一人がいいに決まっています。気楽で、最高じゃないですか?!
よほど好きな人とかなら別です。何をしゃべっても楽しい相手とかなら分かります。でも、そんな人は、そうたくさんはいません。基本、一人の方が気楽でいいものです。
このあたりのギャップについては、群れる人・群れない人で説明ができるような気がします。
「集団の中で管理されることに慣れ過ぎてしまった」というのは、まぁ、その通りなんでしょう。「「集団に帰属する個人」としか自分を説明できない人が圧倒的に多い」というのも、本質を捉えた指摘だと思われます。
つまり、ただ集まるだけでも、(ある特定の)組織に所属していることで、何となく「ここの一員」という心理で、安心できるという作用があるのだろうということです。
そういう人たちは、何かの目的で集まるというのではなく、集まること自体が目的化してしまいます。これが「群れる」というやつです。
朝ごはんを、ただ一緒にとるだけで安らぎを覚えてしまうのは、その役員にとっても、上司の課長にとっても、「同じ組織に所属している」ということを確認し合えることに大きな意味があるからです。私にとっては、さしたる意味に思えませんが、彼らにとっては心理的に大きな意味があるのだと思います。
こういう人たちは、会議も大好きです。もちろん、会議のアウトプットは関係ありません。そして、たくさんの人たちが集まりさえすれば、何かいいアイディアが生まれたり、共有すべき問題が明らかになったり、素晴らしい解決策が、勝手に生み出されたりするものだと勘違いしがちです。なぜ、そんな勘違いをしてしまうかといえば、彼らの本当の目的が、そんなアウトプットにあるわけではなく、「集まること」自体にあるからです。
そんなわけなので、群れる人々が、いい仕事をできるわけがないということになります。
しかし、ここでちょっとだけ考えてみます。
群れない人々だって、一人で生きていけるわけではありません。人との繋がりを大事にして生きていく、という意味では、群れる人々と大差ないようにも思えます。
私自身、人と人が繋がっていくコミュニティの基盤のようなものを作りたいと考えています。
こんなことを書いていると、「お前だって、群れる側の人間じゃないか!」と言われるかもしれません。
そうですねぇ・・・ただ私は、冒頭でも述べた通り、一人でいるのが好きです。だから、なるべく集まらないで済むようにします。
なので、できる限り会議はしたくない派です。ダラダラと会議をやって、他の人たちの時間を奪うなんていうことも、したくありません。
したがって、私が会議をするときは、「本当に会議をせざるを得ないとき」、「どうしても皆で会わなければいけないとき」だけです。また、実際に会議をするときにも、アウトプットに向けて進行させてもらって、極力、早く終えるようにします。念のため1時間の会議時間を確保しつつも、実際の会議時間は15分なんてことも、ざらにあります。
お互い自立しながら、かつ助け合うというのは、きっとそういうことなのでしょう。
組織への所属?肩書?役職?やめてください(笑)。そんなものがいくらあろうが、最終的に自分を救えるのは、個人としての自分自身だけです。そんなところに明確な目的もなく、必要以上に留まってみたところで、ろくなことはありません。
ということで、群れる人々に対して、群れない人々というのは、肩書や組織を外しても、堂々と自分のままで生きている人・・・一番、分かりやすいのは、そんなところでしょうかね。
各人、生き方は自由ですし、どちらの生き方でも構わないと思います。でも、せっかくの一度きりの人生ならば、「群れない生き方」の方がおススメのような気はします。