常にルールの存在意義を考えたい
朝一、髪を切りに行ってきました。まだ受付が開いておらず、受付前のソファには、既に3人のお客さんが待っている状態です。順番待ちを整理する番号札も見当たらないので、とりあえずソファに座ってみました。
でも、やはり気になります。
「番号札、持っていたりする?」
他の人の手をみてみます・・・が、やはりそれらしきものは見当たりません。そのうち、新しいお客さんも入ってきます。そして、お客さんが5人いる状態で、受付が始まりました。
「それでは、順番に受付します。まずは、最初のお客様・・・」
(その手があったか!!)
お行儀よく順番を守る日本人です。そう言われて、最初に受付に向かうのはたった一人です。最初のお客さんを装って、他の誰かが名乗り出ることはありません。こうして次々と受付がされていき、4番目のところで、私がソファを立ち上がり、受付をしました。
当たり前のような日常かもしれませんが、これはなかなかに大変なことだと思います。
お隣の国の人々は、そういうことが苦手ともいいますし、そういうものと比較すると、そうした日本人の生真面目さというのは、際立っているし、素晴らしい美点だとも思います。
とくに私が感じるのは、この「順番通り」というのが、けっして明文化されたルールではなく、お互いが「正直に順番通りにやりましょう」という暗黙の了解のもとに行われているという素晴らしさです。
この「ルールなんてないままに回る社会」というのが、本来、あるべき姿なのだと思います。
しかし、今の人類は、精神が成熟しきっていないので、それを補うため、仕方なく(ここがとても重要)ルールを作らざるを得ないというのが、事の本質でしょう。
訴訟大国アメリカでの契約書が、とても膨大な量になってしまうのは、いろいろなケースでのルールを事前に決めておかないと、あとでトラブルになったとき、対処できなくなるからとも言えます。
けれども、もし当事者間に信頼関係があって、お互いがおかしなことをしないと分かっていて、仮にトラブルがあるとしても、それぞれの立場を尊重して、理性的に解決できるのであれば、契約書はとてもシンプルで済みます。その時の状況に応じて、柔軟に対処することも可能です。
ルールなんてものは、なければないに越したことはありません。仕方ないから作る、その程度のものです。したがって、ルールを作ることによって、物事がすべて解決するなどというのは幻想です。
また、ルールには弊害もあります。ものによっては、よろしくないものだってあるでしょう。
「悪法も法なり」という言葉があります。
悪法であっても、法律は守らないといけないというのは、分からんでもないです。
けれども、社会がいよいよ狂い始めてくると、法がいかにマズイものになりうるのかがハッキリしてきます。さらには、それに従うことが市民・国民にとっての「死」を意味するような事態にまで発展しうる状況にまでなってきました。
そのような社会において、私たちひとりひとりは、常に「このルール、本当に必要なのか?」を考えていかなければなりません。
ルールを作ったから解決!おしまい!ではないどころか、ネガティブな要素を多分に含むような社会になっていることに、私たちは気付いていく必要があります。
最近、横断歩道の手前で、急ブレーキをかける車を、ちょくちょくみかけるようになりました。危なくてかないません。
本来ならば、心がけで済ませればいいところを、ルールとして義務付けを強化することにより、「歩行者を守る」という目的から外れて、思わぬ弊害も考えられます。
法律だからしょうがない?義務だからただ守れ?
分かります。分かりますけど、いろいろ考えてみましょう・・・というか、今、日本国民がさまざまな生命の危険、生活の脅威、財産の危機に晒されているなか、日本の警察はどこに力を入れているんだ?というところも含めて、多くの問題があるような気がしてなりません。
ルールだから守るのが当然・・・は、ちょいと置いておきましょう。
けっして「ルールを無視していい」、「法律は違反しても構わない」というわけではありません。
ただ少なくとも、常に「そもそも、そのルールはどうしてあるの?そして、それはどのような影響を及ぼしうる?」くらいは考えるべきです。それを思考しない人々は、(本来ならなくてもいい)法律を作る側の人々、国家権力にいいように巻き取られてしまうでしょう。
これから先、憲法改正の議論なんかもあろうかと思います。ルールの在り方については、日ごろから考えておくといいかもです。