「面倒くさい」の裏側
新型コロナウイルスの治療薬として、イベルメクチンの有効性を検証していた興和から、プレスリリースが出ました。
イベルメクチンの効果がなかったということで、「どうした?」って話ですが、よくみれば「そりゃ、そうだろ」って話でもあります。
話のポイントは、こんな感じです。
軽症の患者にイベルメクチンを投与してみた。
イベルメクチンを投与したら症状改善したけど、イベルメクチンを投与しなかった人たちも同じように改善した。
イベルメクチンの安全性は確認できた。
えっと・・・「2」がおかしくないですかね?
そもそも軽症だから、割と何もしなくても症状が改善する人たちだったのでしょう。当初の武漢株とは違い、弱毒化が指摘されているオミクロン株が主流にもなっているわけですから、軽症の場合、何もしなくても改善するようなケースが、多々あったことは容易に想像できます。
イベルメクチンについては、ここでも散々、書いてきたので、今更、取り立てて言うことはありません。
分かる人は「秒」で理解します。つまり、もうだいぶ前から分かっているということです。
しかし、分からない人は、そもそも分かろうとしてないので、何を言っても理解できません。とくに今回のような問題は、その代償が自分自身の健康や命になるわけですから、いちいち他人が口を挟むことではないかもしれません。
それぞれの人生、いろんな生き方があるでしょうから、それらを互いに尊重しながら生きていければいいのだと思います。
まったく賛同できませんが、こういう記事を読んで、「やはりイベルメクチンはダメだったんだ」という人たちもいるわけです。
記事の結びに「こびナビ」のコメントを入れてくるあたりで、もう何も言うことはありません。ダメなやつです。
・・・というか、すみません。
正直、もうこの記事についても、「ダメなやつ」くらいしか言う気力が出なくなってきました。去年あたりだったら、いろいろと論点を整理しながら、反論なんかもしていたと思います。けど・・・だいぶ面倒くさくなっちゃったんです(笑)。
うん・・・最近、ものすごく面倒くさい・・・。
先日、家に戻って、母と話しました。母からは、これから先どうやって生き残っていくのか?どうやって道を切り拓いていくのか?何をしていったらいいのか?そんな話を求められます。
もちろん、やることは全部やります。そして、それらをやってれば、必ず道は開けると思っています。言っちゃ何ですが、まるでやられる気がしません。世界が良い方向に行くような気しかしていません。
でも一方で、「もしダメだったら?」みたいな聞かれ方をすることもあります。
そんなときは、こう答えます。
「面倒くさいから、さっさと死んでやるよ。そんな世界まっぴらだわ」
こっちは、やること全部やります。思いついたことをすべてやります。誰のせいにするとかでもなく、たとえ人類に対する大罪を犯しているような人たちがいるとしても、そんな人たちを責めるような生き方なんてしません。やることをやるだけです。
しかし、それでもうまくいかないような世界なら、こっちから願い下げです。そして、そんな世界から足抜けできるのであれば本望です。
したり顔で、あの世に逝きます。あの世に逝ったら、言い訳だって簡単です。
「いやぁ、あそこはヒドイ。俺がいる価値がないわ。俺がもったいない。あとは、やりたいやつだけでやってりゃいいよ。ほんと面倒くさいだけだったわー」
仮に向こうに閻魔大王でも、神様でもいるのであれば、そう言ってやればいいだけのことです。
メチャメチャに聞こえるかもしれません。命を粗末にしているようにみえる人もいるでしょう。しかし、それくらいでちょうどいいと思っています。
「生(せい)」にしがみついていては、強い「生(せい)」にはなりません。いつでも死んでやるくらいの覚悟が重要です。
この世は、「表と裏」でできてます。
逆説的ですが、いつでも死んでやるくらいの覚悟があるからこそ、逆に強い「生(せい)」を掴み取ることができるとも思うのです。
そして、面倒くさいというのも同じです。面倒くさく感じる裏側には、それと同程度に面白いと思うこと、楽しいと思うことが生まれてきています。
そういう意味で、上掲の「こびナビ」のコメントを引用している記事をみただけで、面倒くさくなっている私は、逆に面白いこと、楽しいことに囲まれ始めているようにも感じます。
なので、そう思ったら、それはそれでいいか?という気にもなるのでした。
この世は、常に「表と裏」で溢れています。いろいろありますが、何かネガティブなことがあったら、その裏側を探してみるといいかもしれません。