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「新種の人類」は人類に関わらぬ

野生動物の捕食シーンなど、誰でも一度はみたことがあると思います。Youtubeなんかで検索したら、いくらでも出てくるでしょう。

そんな派手なものでなくても、スズメが生きているカナブンを突いて食べているとか、クモが巣にかかった蝶をグルグル巻きにしているとか、その類のものなら、ちょっと外に出れば見られないほどのことでもありません

ところで、そういうものを目にしたとき、私たちの感情は、いったいどんなものでしょうか?

ほとんどの人が、捕食された側に対しての感情が動くのではないかと思います。

かわいそう

うん、私もかわいそうだと思います。「辛いだろうな」とか、「痛いだろうか」とか、「苦しいだろうな」とか・・・いろいろです。

でも、それを止めようとはしません

捕食する側にだって事情があります。餌を食べていかないといけません。仮に、クモの巣にかかった蝶を外して逃がしてやったとしたら、せっかくの獲物にありつけたクモにしてみたら、大変迷惑な話です。

かわいそうな蝶にとってはよかったことでも、今度はクモに対して、かわいそうなことをしてしまうことになります。だから、ほとんどの人は、「かわいそう」と思いながらも、静観するのではないでしょうか。

ライオンに襲われているスイギュウのシーンをみて、「スイギュウがかわいそうだ!この動画を撮っていた人は、なぜスイギュウを救わなかったんだ!」なんて言う人、(もしかしたらいるかもしれませんが)ほとんどいないと思います。

そうした捕食者と被捕食者との関係というのは、私たちが立ち入って干渉すべきではないということを、多くの人は理解しているのではないかと思われます。


ここで、ちょっと話を変えます。今の人類社会の状況についてです。

既に、分かっている人には、分かっていることです。陰謀論呼ばわりする人もいますが、そんなのは関係ありません。この地球上の人類が、絶対的な支配者層と被支配者層に二分化されようとしています。
※これに強く反論されるという方は、反論をされる前に、もう少し幅広に情報を集めて、真剣に世界構造を学ばれることをお勧めします。

そんななか、所詮、被支配者層に属する人たちの命などというのは、軽々しく扱われるようになります。

こんなにも多くの人々が亡くなっているにもかかわらず、支配者層のツールになり果てているメディアでは、それを一切問題視せず、取り上げることもありません

何故か?

簡単に言ってしまえば、そういう人たちの健康や命は、利権に巻き取られており、文字通り「食い物」にされているということです。言い方を換えれば、同じ人類同士ながらも、既にそこには捕食者と被捕食者のような関係性ができあがりつつあるということでもあります。

さて、ここからが問題です。

こんな捕食者と被捕食者のような関係性ができあがりつつある人類社会のなかで、私たちはどう生きるべきでしょうか

私のひとつの提案は、「もう人類辞めてしまえ」です。それはけっしてネガティブの意味ではありません。思いっきり、ポジティブな意味においてです。

仮に真面目に考えるとしたら、私は、そんな「デーモン」に負けるわけにはいきません。ということで、AIとゲノム編集に頼らない「神人」を目指したいと思います。

「「神人」ってなんだべさ?」より引用

人類というものが、今のまま存続すると考える必要はありません。そろそろホモサピエンスではなく、「別の種」に進化をしていってもいいように思うのです。それを「神人」という言い方をするかどうかは、勝手です。

どちらにしても、こんな争いだらけで、片方はめっちゃ支配したがっていて、片方はめっちゃ支配される(家畜になる気満々)ような状況にあって、自分たちも「彼らと同じ人類」などと考える必要はないと思います。

そんなことできっこない?

そんなことありません。

支配層と被支配層、そのどちらにもつきたくないのなら、少なくとも、「自分はどちらにも属さない」と明確に自分のなかで決めることくらいはできます。そして、仮に物理的には「別の種」になることができなくても、頭のなかで「自分は彼らとは『別の種』だ」と考えることくらいは可能です。思考は自由です。

進化とは、物理的な現象によってもたらされるのではなく、まずは精神的に「自分は『別の種』である」と強く信じるところから、もたらされる可能性があります。

ここで、思考や精神に話が移ります。少しぶっ飛んだ話に聞こえるかもしれませんが、生命の起源は、そうした偶然の積み重ねでできたタンパク質からできたのではなく、思考や精神からできたというのです。思考や精神が先にあって、そこから生命が生まれたということです。

「新説・進化論~思考から生命が生まれる~」より引用

簡単に言ってしまえば、「ある朝、気付いてみたら、眉毛が生えていた」とか、「突然変異で、眉毛がある子供が生まれた」とか、生物はそんな気まぐれな偶然の積み重ねで進化してきたわけではなく、先に「水をかぶると額から水が目に入る。何とかするべきだ!」という強い考えがあって、その結果として、人類は眉毛を獲得しているかもしれないということです。
※このたとえ話については、詳述しません。人類の起源について語るには、もう少しきちんと紙幅を割く必要があります。しかし、従来の自然淘汰説のように、偶然両目の上に毛が生えてきて、そうした個体が生き延びやすく、眉毛をもたない人類が死に絶えたため、結果、すべての人類が眉毛を獲得したという考え方に、私は同意しかねます。

なんにせよ、まずは思考なのです。

物理的なことは、それがどう具現化するかの話なので、細かく考える必要はありません。先に「自分は彼らとは違う『別の種』だ」と考えるだけで、進化の第1ステップは踏んでいるということです。

そして、そう考えてみたら、今の人類同士の争い自体が違って見えてくるはずです。そう、野生動物の捕食シーンみたいなものです。天然のサファリパークのなかで、日々、自分とは違う野生動物(人類)が捕食し、捕食されているわけですから、それは大変です。もちろん、「かわいそう」なことで溢れています

でも、それだけということでもあります。関わることはありません。過度に感情が揺さぶられることもなくなります。

私たちが、同じ人類として、どちらかに属したまま、何とかこの難局を乗り越えられるのであれば、それに越したことはありません

しかしもし、その延長線上に、自分たちが生きていく道がみえないというのであれば、「別の種」への進化を真剣に考えてみるのも手です。その決断には、少し時間がかかる人がいるかもしれません。でも、他に手があるでしょうか。

私は、もう次に向かって、一歩を踏み出していこうと思います


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