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「点」を繋げて「線」を描け

うちの母は、覚醒しています。

ワクチンという個別の話に限らず、戦後を含む日本の近代史や、最近のウクライナ情勢をめぐるマスコミや政府の問題、プロパガンダについても、よく勉強しているので、テレビの情報に流されることはありません。今後の食料問題や物価高騰などについても、深刻に受け止めているようです。

そんなわけで先日、家に戻ったら、物置のように散らかりっぱなしだった部屋が、キレイに片付いていました

今後の社会情勢を考えたら、きちんと備蓄をするための空間を設けた方がいいということで、老体に鞭打って、頑張ったそうです。

おかげで、先日大量に獲れてしまったジャガイモは、無事、保存場所を確保することができました。

今後の収穫物の保管についても、かなり有効に活用できそうです。

そんな母が、最近、及川幸久さんとSATORISM TVさんの話をしてきました。どちらも母が、熱心にみている動画リストの一部です。

二人ともすごいわよねぇ

うん、たしかにすごいと思います。大変勉強になるので、私もちょくちょくみています。テレビなんて、バカバカしくて見てられません

ただ例えば、このお二人の動画について言うと、それぞれ特徴があるので、見る側の私たちは、その特徴を踏まえたうえで、使い分けをするのがいいように考えています。母には、そんな話をしました。

及川幸久さんの動画はどちらかというと、日本では報道されない、海外のニュースやレポートを紹介してくれているというスタンスです。

どうしても、日本に住んでいると、自ずと日本のメディアが報道する内容ばかりに触れることになります。海外ではどうなっているのか、何が報じられているのかという情報が入ってきません。そういう知識や情報を補完するため、及川幸久さんの動画は、大変役に立つのではないかと思います。

それに対して、SATORISM TVさんは、情報と情報を繋ぎ合わせて、それをどのように解釈するのかという「思考法」に焦点が当てられているように思います。

知識や情報については、もちろん海外のものも含まれていますが、その情報自体を紹介するというよりは、それらをどのように解釈して、そこからどのような結論が導き出せるのか?というところがポイントに思われるのです。

この世界・仕組みを理解するうえで、情報は必要です。しかし、それだけでは足りません。情報はあくまでも「点」でしかないからです。

私たちが、この世界・仕組みを理解するためには、それらの「点」と「点」を繋ぎ合わせて、そこにあるらしい「線」を描いていく必要があります。

ここでのポイントは、そこにあるらしい「線」ということです。その「線」は、実際にハッキリみえる必要はありません。正直言って、その「線」がハッキリみえるということは、ほとんどないと言っていいでしょう。

ハッキリ見えていなくても、そこに「確からしさ」があることが重要です。そして、その「点」である情報と情報の間に引いた線に「確からしさ」があると判断するのは、自分自身です。

その点は非常に重要です。状況に合わせて「これは効いたようだ」などと、たくさんの相関関係から「真実に近づく」ことをしていかなければなりませんよね。科学は確かに実験がしやすく、因果関係を確かめるための介入ができますが、それでも、やはり社会科学の悩みと方向は同じで、たどりつくのはようやく「確からしい」という答えです。
 「確か」ではなく「確からしい」です。神様ではないので、100%の「答え」にはたどりつかないんですね。

日経ビジネス
「エセ科学にだまされる人とだまされない人の違い」
2021年2月18日より引用

確からしさ」だなんて、いい加減すぎると思われるかもしれません。しかし、それは何もおかしな話ではないのです。なぜなら、科学だって常に「確からしさ」を追究しているのであり、「絶対」と決めつけられるようなものではないからです。

そういう意味で、SATORISM TVさんが伝えようとしている「思考法」は、非常に重要です。

少し話が変わりますが、「群盲象を評す」という寓話があります。

目が見えない盲目の人間が数名集められ、その人たち全員に象を触ってもらった。当人たちは目が見えないので、当然のことながら象という動物を見たことはない。そこで、触った感触から象という動物がどのようなものか、感想を述べてもらった
人々はそれぞれの触った感触から感想を述べた。しかし象に触れた盲目の人々は、象の体のすべてを触ったわけではなかった。そのため人々の感想はみな同じ1頭の象についてのものでありながら、その話す内容はみなバラバラだった。
たとえば、鼻に触れた人は、象という動物は御輿を担ぐときの棒のような生き物だと言い、牙に触れた人は杵のような生き物だと言い、耳に触れた人は箕のような生き物だと言い、足に触れた人は臼のような生き物だと言い、尻尾に触れた人は縄のような生き物だと言った。

禅の視点「【群盲象を評す】平面的な意見と、立体的な真実の関係」より引用

目が見えない人たちが、象を触って、その触っている動物(象)がどのようなものかについて感想を述べるというものです。同じ象ではあるものの、それぞれ触っている場所が違うため、その感想がバラバラになるというのが、この寓話のポイントです。

ここで語られる象に関する情報は、「点」でしかありません。ここを深掘りする方向性があってもいいですが、全体像を把握するには、あまり役に立ちません

例えば、象の鼻を触っている人が、「太いな」、「よく曲がるな」、「意外と毛深いな」、「毛の長さは10cmくらいだな」、「1㎠あたり3本くらい生えているな」・・・こんなふうに象の鼻を触りながら、一所懸命、その分析をすること自体、意味がないとは言いません。しかし、象という動物の本質を見抜くのには、あまり役に立つとは言えないでしょう。

それよりも違う「点」、例えば象の足を触ったときの情報、象の牙を触ったときの情報、象の耳を触ったときの情報・・・そういうものをさらりと拾い上げて、それらを繋げることの方が、その動物(象)がどんなものかを知ることに繋がります

つまり、私たちがこの世界・仕組みを理解するには、「点」(情報)だけでなく、それらを繋ぎ合わせて「線」を描けるような思考法が、非常に重要だということです。

誤解がないように言っておきますが、「点」(情報)を紹介している及川さんの動画に意味がないと言っているわけではありません。「点」(情報)がないままに「線」を引くことはできません。当然、「点」(情報)は必要です。それまで描いてきた「線」の「確からしさ」を検証するためにも、「点
」(情報)を集める
ことを怠るわけにはいきません。
※及川さんは、宗教家でもあるため、「思考法」自体、特定の宗教への偏りがあるであろう点も、留意しておく必要があると思います。しかし、だからといって、その「点」(情報)に価値がないと決めつけられるものではありません。むしろ及川さんが提供してくれる「点」(情報)には、及川さんが宗教家であるかどうかに関わらず、変わらぬ重要性があると思っています。

私がここで申し述べたいのは、それら「点」の間に「線」を引くことこそが重要であり、その「点」(情報)を深掘りするだけでは、世界・仕組みを理解することにはつながらないのではないかということです。

知識欲」なんて言葉があります。しかし「点」(情報)を集めるだけで満足していては、けっして物事の本質にはたどり着けないかもしれない点、気をつけなければなりません。「点」の深掘りも、ほどほどにしておく必要があります。

どんな線が描けそうかな??

「線」を描くのは、他の誰でもない自分自身です。そうやって、自分なりの「線」を描くことこそが、これからの世界を生き抜くうえで、重要なのだろうと思います。


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