自己紹介その①。 山崎壱成です。
こんにちは、アスリートな通訳、壱成です。
「めっちゃ書いているのに、自己紹介のnoteを書いてないやん。」っていろんな人から言われたので書きます。笑
入った当初日本1だったサッカーチームで英語通訳として働き始め、アジアチャンピオンズリーグでの通訳をすることになった21歳の日本最年少のアスリート通訳になり、23歳の今はプロサッカー選手通訳をしながら、日本人向けに英語を教えたりもしながら、機能的マッチョ、健康オタクになり、野獣って呼ばれることに。こうなるまでの人生についてちょっと詳しく書いていきます。
僕は誰
山崎壱成 (山崎野獣壱成)
趣味 〜 筋トレ・クロスフィット・分子栄養学・デトックス・ギター・スペイン語・旅・冒険・SNS・コミュニケーション。
特徴 〜 毎日自問自答する・電話好き・仲間大好き・好奇心旺盛・超絶ポジティブ。
簡単に趣味と特徴を話すとこんな感じですがもっと詳しくポップに書いていきます。
〜サッカー人生のスタートから辞める決断まで(夢・成功・挫折・変化)〜
とにかく楽しいサッカー人生(ちびっこ時代)
1997年4月3日に広島県広島市で3人兄妹の末っ子として生まれました。もちろんその時の記憶はないんですけど、産声から面白かった事を信じてます。それから、兄がやっていた影響で僕も6歳くらいからサッカーを始めました。地元の小学校のチームで兄がやっていたので、そこに常について行ってました。2年生にならないとサッカー部に入れなかったのので、兄の練習中はグランドの端っこでずっとボールを蹴っていました。それから、僕が小学校に入学し、2年生になった時に、その小学校のチームではなく、隣町のクラブチームに入る事を決めました。
小学校の授業で夢について書いた際は、「プロサッカー選手になって海外でプレーする。」って書いていたし、まぁただ単純に強いチームででやりたいし、そのほうが自分が上手くなるし楽しいって思っていたので、その選択をしました。それに、兄に負けたくないと言う気持ちが強かったのかもしれないです。子どもの頃の3歳差はかなり大きくて、何をしても負けていたので。笑
プロ選手も出るような大人数のクラブだったんですが、僕が4年生になった時に大人の事情でそのクラブが分裂しました。それからは人数がかなり減って、フットサルの試合もできないくらいになり、もうこれは何か違う手を考えなきゃいけないなと思いました。ちょうどその時に中のよかった1つ下のチームメイトがサンフレッチェ広島のサッカースクールに通っているって事で誘ってもらい、2つのチームを掛け持ちすることになりました。
サンフレッチェのスクールでやっていながら、もっと上手くなりたい、もっと良い環境でサッカーがしたいと強く感じている時に、スクールのコーチからサンフレッチェのスクールではなくて、アカデミーのテストを受けてみる事を勧めてもらい、練習参加させてもらい、合格してそのアカデミーに所属することができました。
それからは全国大会に出たり、広島県選抜の16人に選んでもらったりもして、とにかくサッカーを楽しんでいました。今思えば、もっと上手く工夫できたりとか、もっと練習できたよなぁって思うことも多くあるんですけど。そこで何かを楽しむことがどれだけ人生を充実したものにしてくれるかってことを子どもながらに学びました。
テストに落ち、キャプテン人生のスタート(中学生時代)
その後、サンフレッチェのジュニアユースに入るテストを受け、最後の第三次選考で落ちました。「他のチームで修行してくることが壱成にとってベストなものになると思う。そしてまたサンフレッチェに帰ってきてくれ。」と言われたのを覚えています。まさかトップチームの通訳として帰ってくるとは全然想像できなかったんですけど。笑
確かに、めちゃくちゃチビだったのもあるし、それ以上に選ぶ立場のコーチたちの心を全力で揺らすことができなかった実力不足が一番の原因どと言う事を実感しました。その日家に帰って、それまでの人生で一番涙を流し、親に他のチームを受ける事をお願いしたのを覚えています。
それから、広島で2番目に強いと言われていたピジョンFCと言うチームがある事を教えてもらい、そのテストを受けました。そこにもかなりの人数が来てたんですが、嬉しい事に合格することができました。そして中学からはそのクラブチームでのサッカーをしていくことになりました。
そのサッカーチームはとにかく人間性を育てること、サッカー人としてのレベルを上げる事に集中しているクラブで、中学校の学業成績を山下監督に提出してチェックしてもらうことになっていました。その中学時代に学んだことは今の人格形成に大きく影響を与えてくれています。まぁ、とにかく厳しかった。笑
中学3年生になった時に、その年のキャプテンを決める多数決があり、確か1人以外全員が僕に票を入れた事を覚えています。そしてキャプテンになることに。大変なことが多くありました。中学生にはメンタル的な成長にまだ大きな差があるし、何しろ僕も中学生なので、毎日試行錯誤をして「どうやったらもっとみんなの集中力が上がるだろう。」とか、「どんな声かけの工夫をしたら良い反応を得ることができるんだろう。」とか考えてました。
今思えば、その時から考える癖が付いたのかもしれないです。
いろんな価値観が生まれた3年間(高校生時代)
高校をどこに行こうかと迷っている時に、「広島国際学院高等学校という高校のサッカー部の顧問の瀬越先生からオファーが来ている」と中学時代のクラブの監督から告げられました。行こうと決めていた高校があったのですが、一度話を聞いてみようと思い、会うことに。数日後、僕の中学校に瀬越先生が来られて面談をしました。そしてそこでの言葉にエネルギーを感じ、そしてワクワクさせられたのでその日のうちに、その高校にいく事を決断し、オファーを受けることにしました。
高校は私立の人気校でいわゆるマンモス校でした。入学してから学校が始まると1500人以上も生徒がいる高校生活にワクワクさせられました。その高校には中学時代に一緒にサッカーをしていたチームメイトの親友もいて、一緒にサッカー部に入りました。生徒数も多いのもあり、部員は130人くらいはいました。1つ上の代はサッカー推薦できている人が何人いるの?ってほどに多くいて、上手い人がたくさんいました。
それから必死に練習に付いていく日々が始まり、自分の成長を感じられている時にトップチームに上がることもできました。2年生になり、公式戦では2年生で唯一のスタメンとして試合にも出ることができていました。とにかく必死に頑張って、技術で劣る分、試合中は誰よりも声を出していたと思います。ある公式戦で自分の思ったプレーが全くできなくて、途中交代をさせられて負けた試合がありました。それで引退する先輩たちに何を言えばいいかも分からず、とにかく辛かったのを覚えています。
今の自分からその時の自分にアドバイスをすることができたらどれだけ助かることか。「お前は野獣壱成になるんだからくよくよするな」って言ってやりたい。笑
もうそれから悔しさもあり、猛烈に練習しました。朝練の後に自主練、さらに午後練の後に自主練。筋トレもかなりしました。そして体の強さでは誰にも負けなることができました。そこから、僕の筋トレ人生が始まったのかもしれません。
3年生になり、その代のキャプテンと副キャプテンを決めることになり多数決で決めました。それぞれ票を紙に書いて入れ、後日、監督に呼ばれて職員室で僕が副キャプテンも含めると全員から票を得たことを知らされました。正直その時かなり嬉しかったんですけど、それと同時にキャプテンになった中学時代にサッカーを楽しむことに集中できなかったことが引っかかってました。それから少し悩みましたが、自分がキャプテンになっているのが頭の中で想像できたのでやることにしました。
それから全国大会に出ることだけを目標に毎日毎日練習しました。結果行けなかったんですけどね(涙) それでも本当に多くの事を学ぶことができました。130人近い人数のキャプテンなんてそう経験できるものではないと思うし、何よりもその大変な思いを高校生でできたのがよかった。そのころのチームメイトはただの友達って感じではなくて、本気でぶつかりあった仲間です。その違いに気づくことができたから現在も素敵な人に多く囲まれて生きることができていると思います。その母校が今年の公式戦で広島決勝までいき、2位になっていたのですごく期待しています。
悔しいことに高校で全国大会に出ることはできずに引退です。かなり悔しくて呼吸できないくらい泣いてました。やばいなこれ笑
そしてその数日後だったかな、顧問の先生から呼び出されて、関西の大学のサッカー部で僕に興味を持ってくれてるところがあるかそこに行ってみないか、ということでした。その時は正直すごく嬉しかったです。人生の中で自分のスキルや能力に対してオファーをもらうことってあまりないと思ってて、その瞬間は認められたんだって嬉し感情が湧いてきました。
でも、最終的にその誘いを断ることにしました。その時の僕の中で、新しい事をしたくなってる自分がいたんです。漠然としたイメージだけど、東京で成功したいと思っていました。あの感覚は一体なんだったのかわからないんですけど、もう凄く強くて、サッカーを辞めて東京の大学に行く決断をしました。
でもあまりにも勉強をおろそかにしすぎて、「どこにも受かる大学がないぞ。」って担任の先生に言われて焦りました。自分で本気でセンター試験のもしを受けてみたんですけど、英語の点数が200点満点中20点ちょいでした。マークシートの4択を適当に何も考えずに全て同じ回答するよりも僕が本気で解く方が点数が低いという地獄を味わいました。それからは受験まで時間がないので、3教科だけで受けれる大学を選んで毎日時間さえあれば勉強しました。その結果、東京にある大学の受かりやすい学部に受かる事ができ、いざ、東京編です。汗
日本一に憧れた僕(大学入学から留学前まで)
2016年3月25日に友達たちに見送ってもらい、広島を出発しました。
ワクワクした気持ちがありながらも、広島から遠く離れた東京に行くっていうこともあり、みんなと離れるのは寂しかった思い出があります。最高の仲間ですね。そして高校を卒業してすぐにみんな初めて髪を染めているので少し突っ込みたくなる部分がありますがそれはご容赦ください。
東京に着いてからは1人暮らしをスタートし、もちろん初日は渋谷のスクランブル交差点にいき、東京を感じました。もう高鳴る鼓動の音が聞こえて、上ばっか見てる自分が定番の田舎者だということに気づきました。笑
その後、大学が始まりサッカーサークルにも入り先輩の紹介で九州料理の居酒屋でバイトを始めました。仲のいい仲間たちみんな同じバイト先でやっていたので本当に楽しかったし、100店舗以上系列店がある中で僕らのお店の売り上げが1番よかったのを覚えています。みんなしてるようなテレビの取材も頻繁にありました。そこで仕事場の雰囲気がどれだけ大事なのかって事を学ぶことができたと思います。みんなおもろいメンバーだったけど、夢もあってみんな全力で働いていたっていうのはすごい力だなと。
そこから銀座の外資系ホテル5つ星でもバイトを始めました。ただ、面接に茶髪で行ったため、「ここをどこだと思ってるの?」って標準語で打ちのめされ、「すみません、今日黒染めしてきます。ここで働きたいです、お願いします。」と気合いで返して、「気合いがいいね、採用。」って感じの過程がありました。その時初めて標準語の怖さ的なものを感じました。。。あれすごいほんまに。
そんな感じで大学生活を初めて3ヶ月経った頃世界に目を向ける強烈なきっかけを得るんですが、それからのことについては次のnote自己紹介⓶で書いていきます!
Be optimistic.
山崎壱成
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