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Close【短編】

紙コップが熱く、手で持っていられなくなる。思わず机に置いてコーヒーから漂う香りにぼんやりしていると、いつも優太が座る僕の左隣に麻衣子が着席した。手にはさっき僕がコーヒーを買ったお店のカフェオレと個包装のチョコレートを持ち、彼女はチョコレートを1つ渡してきた。

「ねえ、先週の西洋建築史出た?」
「出たよ」
「プリント見せて」
「そのためのチョコレートか」

友人が少ない僕と麻衣子はこうして助け合い、この大学で互いのことを頼っている。
会えばどことなく会話が始まり、特に何を言わなくともわかり合えているこの関係が気に入っていた。連絡頻度も恋人のそれだった。

彼女はすぐ顔に出る。
上機嫌だと目尻は下がり、笑うたびに綺麗に並んだ白い歯が見え隠れする。不機嫌だとまゆがハの字になり、唇をきゅっと閉める。

今は目尻を下げている。

麻衣子の顔は、正面よりも横顔の方が覚えていた。はっきりとした目鼻立ちでありながら、やわらかそうな頬を辿ると、耳元にはいつも大ぶりのイヤリングを下げている。


始業チャイムが鳴り響く。
5分が経過してからデッサンの先生は登場する。優太の登場はその10分後。先生が今日の工程を説明し終え、優太が汗一つかかずに入室する。

たった今聞いた説明を優太に伝える。
彼は最初こそ練り消しゴムを忘れたと慌てふためいたが、デッサンなどすぐにそっちのけになり、マッチングアプリで知り合った女子とのデート話を頼んでもいないのに話し始めた。
彼のデートは毎回相手が変わるからいちいち覚えないことにしている。

「そんな取っ替え引っ替え遊んで楽しい?」
「うん、合わないと思ったらすぐ次いくし」
「次いってばっかじゃん」
「合わないからな、しょうがない」

運命の人探しというのは男子も積極的に行う。
たった一回会っただけで相性がわかるなんてその思考がわからず、目の前のぬるくなったコーヒーを一気に飲み干し、デッサン課題の円錐形の石膏に目をやった。

麻衣子と最初で最後のカウンター席、その日はいつにも増して横顔を見つめていた。

彼女はカフェラテ。僕はフラットホワイト。
エスプレッソとミルクで作られるそれは、使用するミルクの量が少ないためエスプレッソの味わいが強くなる。
その知識を店主から聞いて唸る僕の横で彼女はカフェラテをすすってご満悦の様子だ。

彼女が手帳を机に広げ、二人でなんとなくそれを眺めながら話した。
日曜日の欄に毎週同じ名前が記入されていることに気がつき、思わず口が開く。

「いつも日曜日に会うの?」
「うん、特に約束しなくても」
「へー。何して遊ぶの?」
「大体私の家に彼が勝手に来る」

僕と麻衣子以上に、麻衣子は恋人と何を言わなくともわかり合える関係を築いている。
恋人いるって、もっと早く知りたかったな。

店を出たころには彼と上手くいってない現状を聞き出し、すっかり安心した。
秋の割には風がひんやりしていて、身を寄せ合いながら駅まで向かった。
僕は麻衣子の指を上から包み込むように握った。彼女はそれに応えるように、恋人繋ぎに変えるようにして僕の指に自分の指をするっと絡めてきた。同じくらいの強さで、握り合った。

彼女の横顔は見なかった。きっと目尻は下がっている。

大学卒業後、麻衣子は建築士を目指さず彼と結婚した。僕は設計事務所に勤めながら麻衣子とは似ても似つかない恋人と暮らしていた。

麻衣子とは何もかもが違う。
ビロードのような艶のある長髪ではなく、風が吹いてもなびかないショートヘア。ゆらゆらと揺れるロングスカートを身に纏うのではなく、ボーイッシュにパーカーを着る。耳には大きなイヤリングなど飾らず、そもそもアクセサリーは好まない。

麻衣子よりも会話を交わし、正面から目を合わせ、必要以上に触れ合う。
お互いに嘘がつけない。正直者だからその都度感じた気持ちは口に出すようにしている。

麻衣子のことは、何も知らなかった。
知らなかったから、話しかけ続けた。彼が知らない彼女の一面を見つけては、どこか勝ち誇った気分だった。彼女と彼の関係性を事細かく尋ね、彼の欠点を知るたびに反面教師となって自分を鼓舞した。
僕は、麻衣子の表情や佇まいで心の機微を汲み取っていた。

彼女は、何も喋ってなかった。

目尻を下げたとしても、手を握り返してきても。
本当は笑ってなんかいなかったし、握った手はきっと気の迷いだった。
優太の「合わないと思ったらすぐ次いくし」が頭にこびりついて離れなかった。何人もの女性を抱く彼は、僕より立派な恋愛をしていた。
気持ちは言わなきゃ伝わらないことを、優太はずっと前から知っていたようだ。


フラットホワイトを飲んだ喫茶店は閉店した。
それを知ったとき、今の恋人と出会うまでたしかにあった麻衣子との思い出が全て閉ざされた。

近いようで遠かった。
二人の間に開いた扉を必死に縮めようとした僕は、その扉を近づけたのか、閉めていたのか。

色が抜けて半透明に曇った空は、何も知らない。



頂いたお金によってよもぎは、喫茶店でコーヒーだけでなくチーズケーキも頼めるようになります。