イヤホンをつけられなくなるとき。
二つある。
一つはたのしいひと時を過ごしたとき。余韻を残す充足感は、あれほど好きな音楽やラジオという媒体を僕の身からはがす。本当に、昼夜を問わず、何かしらを聴いている。だからイヤホンを忘れると簡単に不機嫌になる。
もう一つは、かなしみが溢れたとき。
いつもイヤホンをつけているものだから、移動中にイヤホンをつけていないとすぐにはっとする。だから例えば、たのしい時間を過ごした帰りの電車でイヤホンをしていない自分に気づく。それは充実した時間の裏返しだなと、その事実に気づかされ、さらに気分が良くなって帰路につくことが多い。
しかしかなしみで溢れているときは、イヤホンをしていない自分にすら気づけない。仮に気づいたとしても、自分がひどく落ち込んでいると気づかされてさらに気分が落ちる。どちらにせよ、イヤホンをつけないという事実は僕の精神状態を表す証拠になりそうだ。
今日は後者だった。記憶が正しければ1月の初回出社日から今日までイヤホンをしないで電車に乗ったときがない。今日の帰りはつけなかった。つけられなかった。
*
転職して一ヶ月。少しは職場の人間と仲良くなるかと思いきや、嫌な側面に気づくようになってしまった。人となりの良い悪いでなく、単純に僕にも余裕が生まれたことで視界が広がったのだろう。望む光景ではなかった。
かなしみを溶かす術が相変わらず少ない。今年は飲酒の量が減ったかわりに、甘味をよく食している。これはこれで精神衛生的には良い。だが、こんもり溜まった鬱憤は温かいココアを用意しても一緒には流せない。
ここ数年でようやく自分のストレスの溜まり方を知った。自分を誤魔化しながら見えないところで溜まっていき、バケツが満杯になるころにその積もり方は加速度的にスピードを増していく。
だから気づくといつも「いっぱいいっぱい」なのだ。満杯が近づくころに自分の機嫌取りをしてみても、そのときにはすさまじき表面張力を駆使した自分の出来上がり。例によってイヤホンもつけられなくなる。
つまり自分の「あ、これやばいな」という感覚は、時既に遅しであり、為す術もなし、といった次第だ。自分の機嫌を取る方法、結構持っているつもりだけど本当にだめなときには使い物にならないみたい。
*
前に好きな歌詞を100個列挙して語り散らしたnoteを書いたとき、最後に引用したのが宇多田ヒカルの「For You」だった。「自分の足音さえ 消してくれるような音楽」という歌詞がたまらなく好きだ。
自分がいないようで、でも聴く音楽には耳を傾ける自分がそこに存在している。この一見矛盾しているようでたしかに自分を感じられる感覚は、音楽を聴く意義であり、ひいては生きている実感になる。
ただ、イヤホンがつけられない自分の処方箋を僕は持っていない。下を向きながら歩いても自分の足音しか聞こえない。顔を上げたとて、歩きスマホをする人をこちらから避けるだけ。
それでも自分の足音すら嫌になったころ、耳にイヤホンをかけたらいい。今はその時を待つしかなく、僕が下を向きながら探しているのはイヤホンなしの自分の機嫌の取り方である。
だめなときも書くって、この場所で教わりました。
案外もう見つけているのかも。
頂いたお金によってよもぎは、喫茶店でコーヒーだけでなくチーズケーキも頼めるようになります。