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五月雨【短編】

 いつからだろう。こんなにも閉じ込められた自由のなかにいるのは、いつからだろう。もっと言えば、私はいつまでこのなかにいるのだろう。
 昨夜仕込んだビーフシチューを火にかけ、濃く煮つまる汁をみつめながら私は考える。角切りの大きな肉が浮かぶ、深いとび色のソース。牛肉の旨味が溶け込んだソースは動物的で香り高く、私の鼻を簡単にくすぐる。

 無性にビーフシチューがたべたかった。その考えは、深夜のキッチンに私を陽気に立たせた。だからビーフシチューの勇ましい香りがいま生きている私の輪郭をつつんでいる。
 過去の私の選択によって今日の幸福があるのだ。
 一杯、また一杯とシチューを掬い取りながら、そして私はこれを恋人と一緒にたべたいと思った。

 私と恋人は、素晴らしい食事をする。自分たちでも感心してしまうほどに。料理の佇まいをほめ、一つひとつを味わい、視線をからめあう。互いをみつめてはお酒を飲み、ふたたび食べ物を口に運ぶ。ときどき、どちらかがおいしいとこぼす。それらはくりかえされ、私たちはあっというまに目の前の皿を平らげてしまう。
 食事のとき、私は恋人と横並びにすわるのがすきだ。向かい合ってすわるのでは、私はいてもたってもいられなくなる。
 素晴らしい飲食をしながら、私は横にいる恋人の腕や背中にふれる。すこしごつごつした腕と、揺るぎないその背中に。恋人は私の白い手や、無防備な太腿をさわる。その手つきがあまりにやさしくて、私はくつくつ笑ってしまう。
 つまるところ私は、横にすわっても恋人の方を向いてしまっている。私は、向かい合ってすわることが嫌なのではなく、私が私と恋人との距離を感じたくないがゆえに横にすわるのだ。手を伸ばした先にそれがあること、それ自体が重要なんである。

 一人の食卓でシチューの最後の一口をすすり、すっかり満足した私は、次第に自分が高揚していくのがわかった。明日が来ることに、恋人と会えることに。
 毎週土曜日、私たちは引き寄せられるように会う。それを迎える金曜の夜、私はきまって同じ思考におちいる。習慣は大切だ、と。習慣があるのはやすらかだ、と。私たちは等しい周期で会うことができる。わかりやすい習慣は、たしかな幸福をもたらす。
 上がった口角は下がることなく明日の準備を終えた。新品のセーター、ひかえめな革製のバッグ、恋人に借りていた文庫。私があとできる準備といえば、恋人の前に自分の身体を自分の足で持っていくことくらい。
 
 日付が変わる前、高揚につつまれながら寝床に入る。
 金曜日、それは、一週間のうちで高揚と渇望が同時におとずれる曜日だ。
 私はそのことの、後者についてあまり考えないようにする。考えてもしかたのないことだから。解がない設問はきらいだから、と自らを言い聞かせて。
 向きあったこともある。渇望の果てを。そこには望むようなものは何ひとつなかった。広々として、何もかもが枯れていた。安寧も秩序も満足も、私が求めるものはやはり何ひとつないようだった。この渇望に向きあう必要と気力、それらが私には残っていない。
 だから私は集中する。土曜日のたしかなやすらぎ、もうすぐみられる恋人の姿、それらにまとわりつく高揚に。そしてこのまま眠りにつこうとする。そのとき、渇望は抑え込むように。渇望を、ゆっくりと、体内からベッドシーツに沈ませるみたいに。
 ベッドの上、身体をちいさく丸めて拳を強く握った。いくつかの爪が、手のひらに跡を残した。それは少しのあいだ白く、ほんのすこし痛かった。
 小雨が窓をたたく、薄ら寒い金曜の夜。

 朝10時が過ぎた日曜。ホテルを出た私たちは、軽やかで新鮮な外気にふれた。朝と昼に挟まれた時間の、春を先取りしたような柔い日差しと、透き通ったつめたい空気だ。
 私と恋人はめいっぱい空気を吸い込む。私の感覚はすっかりにぶくなっていて、つめたい量感のある空気だ、と思っただけだった。
 恋人と会ったあと、私はにぶくなる。それは、みちたりるということだ。
 恋人とすごす時間。私の一つひとつがみたされ、私のなかにある不純物やつまらないものを恋人がとりのぞいてくれる。私の感覚という感覚はこれ以上ないほどまるくなり、あらゆる動作がゆっくりになる。現に駅まで向かう私たちの歩幅はせまく、歩く速さは来たときよりうんと遅い。
「お腹がすいたな」
「たくさんしたもの」
 そう返した私は、不思議と誇らしげだった。あまりにも欲求にしたがって生きている私と恋人。欲求をみたしてはまた新たな欲求にかられる。
 けものみたいだ、と思う。ほとんど行き場を失った二匹のけものみたいである、と。捕らえては喰らい、喰らっては次を狙う。衝動的で、申し分がない。私はそのことが、人生にとって好ましいことか好ましくないことなのかはわからない。いまのにぶい頭では、ましてやこれ以上考えられない。
「またね」
 微笑みを浮かべて私から言う。
「うん、また」
 笑顔で軽いキスをして別れた。

 私は一人電車に乗り、昨日から今日にかけてを思いだす。完璧で甘い、私と恋人の昨日を。
 私たちはまずお気に入りのバルですごした。
「会いたかったよ」
「私も会いたかった」
 私たちには習慣がある。土曜日に私たちは会える。私と恋人は、でも習慣がないみたいに互いをひどく欲していた。
「昨日はビーフシチューをつくったの。あなたにたべてほしかったわ」
「それはたべたかった」
「今度、私の家に来たらいいじゃない」
 恋人はそうしよう、とこちらをみないで言い、やおらビールを飲んだ。恋人が私の太腿を撫でる。やさしく誘惑的に。私は気にしてないような顔をつくり、マッシュルームのアヒージョをたべた。おいしいわ、と感想を言ってみたが恋人の手つきは変わらずだった。そのあとには、恋人が私の指を一本ずつにぎったり、私が恋人の肩に頬をくっつけたりする時間がながれた。
「もう無理だわ」
 私は我慢ならなくなり、恋人の目の奥をみるように言った。
「僕もだ」
 恋人も同じような目をしていた。限りなく私に近い、ほとんど泣きだしそうな、憐れなけもののような目を。
 ホテルの部屋に入った私たちはたちまち忘我のなかに溶けていった。
 私たちの動きは一つひとつがなめらかで見事だ。互いの感触をたしかめるように抱き合っては、いろいろなかたちに身をくねらせる。恋人は私をむさぼるように唇や指をはわせ、しなやかに腰を使う。私は私という存在を恋人にしみこませるように、私でさえきいたことがない声をだす。
 すべてのあと、しわくちゃなシーツの上で私はこらえきれず笑いだしてしまう。私たちが毎度、文句のつけようがないセックスをすることや、それは無理をしておこなわれるのではなく、あくまで自然に望まれることに。どこにも隙はなく、完結された、快適な奇妙さだ。
 あんまり私が笑うので、恋人は挑戦的な笑みを浮かべ、するりと私の両腿をつかみ自分の方に私の身体をずらした。ふたたび私たちは身体を重ねる。そこからのことは夜だったのか朝だったのかはわからない。

 私はまた一週間をやり過ごす。六日間さえこなせばすぐ恋人に会える。私たちのあいだには習慣があるのだから。閉じ込められた自由のなかで、不確かでわかりやすい規則にしたがってきたのだから、私はまた恋人に会えるはずである。この先もいつもとおなじように、でもそれでいて、週に一度だけ。
 やけに空いた電車に揺られる、つめたい日曜の朝。

* 

 私たちはめずらしく食事を重ねる前に身体を重ねた。
 食事でみたされた身体で愛し合うことも、愛し合った身体をみたす食事も、おなじくらい価値があっておなじくらい甘美である。大切なのは順番の前後ではなく、それらがおこなわれることだ。
 私は最中に音楽を流す。ほとんど私の気まぐれによって。それはたいてい、バックミュージックと言えるほど私と恋人の耳には入ってこず流れていてもあまり意味はない。私たちが音楽として認識するのは、だから身体を重ねたあとだ。
 私の携帯から、仰向けになっている私たちのまわりに曲が流れる。人気のなさそうな女性シンガーソングライターの最新曲やらブレイク目前のヒップホップユニットのアルバム曲やらが。

どこまで君といれるの
遠くまで来ちゃったみたいね

「これは誰の曲?」
 すこし前まで私の上で余裕のない顔をみせていた恋人がこちらを向いて訊いてきた。若いラッパーの曲よ、と私は天井を見ながら返す。恋人は二秒間黙って、
「このあいだも流してた?」
 と、加えて訊いた。
「流れてたかもね」
 私は恋人と反対方向をむいた。恋人は腕を器用にまわし、私を後ろから抱きしめた。

ふやけた愛です

 私は目を閉じる。
「あなたと会えない日、私の部屋のベッドは広いの」
 なぜそんなことを言ったのか、自分でも理解できなかった。
「今度家に行くから」
 取ってつけたように恋人は言い、私の髪に唇をつけた。
「いろんなものを沈めて、毎日寝るのがやっと」
「ごめんね」
 私は目を開けてすぐさま言った。
「あなたが謝ることじゃない」
 そう言って身体を恋人の方にむきなおし、右手と左手で恋人の頬をつつんだ。すべての指をぴったりとつけ、私はきっぱりした顔をする。
「自分のしあわせくらい、自分できめるわ」
 恋人は小さく頷き、私は恋人の首に顔を埋めた。

 私たちはいつものようにお腹をすかせてしまった。チェックアウトを済ませ、格別美味しいお酒をのむための計画を立てながら歩いている。
「先週もあのイタリアンだった」
「あの店がいいわ」
「どうして」
「行き方もメニューも、私たちにとってわかりやすいからよ」
 恋人は天をあおいで笑った。
 私は思う。ほかに何もいらない、と。みちたりた私のいまの幸福は、絶対的ないまだけの幸福だ。たとえこれが五月雨のような愛であろうとも。
 いびつな雲の隙間で夕日が沈む、土曜の夕方。
 私は恋人と腕をくみ、泣きだしそうな顔で笑っている。




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