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FGO奏章Ⅲ『アーキタイプ・インセプション』感想 ~紡ぐ側、紡がれる側~

※ FGO奏章Ⅲ『アーキタイプ・インセプション』ネタバレありです。

1.子どもをもつこと

 伴侶を得て数年経った今、にわかに私の前に立ちはだかっている問題がある。それは、子どもをもつかもたないか、という問題である(記事タイトルと全然違う話がいきなり始まって恐縮であるが、本記事はちゃんとFGOの感想記事である。ただ、少しだけ辛抱してこのお話を追ってもらいたい)。

 今、子どもがいなくて寂しいというような感情は私にはない(妻ともたまにそういう話をするが、なさそうである)。平日は仕事をして、休日は二人で出かけたりそれぞれ別々に自分の友人と遊んだりしているだけで、生活は十分に充実していると言っていい。この生活がこれからも続けられるのなら、それは素晴らしいことだと私は感じている。

 逆に言えば、子どもをもつということはこの楽しみを少なくとも部分的には捨てることを意味する。特に子どもが乳幼児であるときはつきっきりになるだろうし、二人で好きなところに出かけたり、友人と好きな時間に遊びに行ったりすることはもうあまりできないだろう。少なくとも結婚してからすぐに子どもを作らなかったのは、本当に我儘な話であるが、このモラトリアムのような時間をまだ捨てたくないという気持ちがあったからだと思う。

 しかし、結婚をして子どもをもちうる状態になっているにもかかわらず、子どもをもたないでいることに最近は一種の居心地の悪さ、あるいは「本当にこれでよいのだろうか」という気持ちを持つようにもなっている。また、その感覚は年々強くなっている。

 その理由の一つとして挙げられるのは、やはり「子どもがいることでしか味わえない幸せ」への憧れである。子どもを育て、その成長を見守る。子どもがいる賑やかな家庭を築く。自分が歳をとっても、身近に若者がいて、あるいはさらに孫が生まれて、賑やかで活気のある生活を送ることができる。裏を返すと、親族と死別してしまい一人寂しく老後を送るというような未来を回避できる。そういう未来のために、子どもが欲しいという感情があるのは否めない。

 しかしながら、やはりそんな感情(だけ)で子どもをつくることは適切ではないと私は考えている。
 子どもはこの世に生まれ落ちたその瞬間から、自分がどう生きるかを自分で決める権利がある一人の個人である。だから、例えば独立したらもう親とは会わなくなる、というのは子どもの自由であるし、親が死の間際まで活気のある生活をするために子どもが尽くす義務も無い(それは道徳に反するという反論はありえようし、また法律上そうも言えない状況はあろうが)。
 また、例えば子どもが障がいを持って生まれたり、あるいは生まれた後に重病にかかり、もともとイメージしていたような家庭生活が実現しなかったときに、「いわゆる『一般的な家庭』が築けなかったので子どもはつくるべきではなかった」などと言えるのだろうか。もちろん個別具体的なケースでそのような思いを吐露してしまう親はいるだろう(そしてそれを責めることはしばしば難しい)が、少なくとも一般的な価値観として言うならば、そんなことは許容されてほしくはないし、されるべきでもないだろう。

 では、なぜ私は子どもをつくらないでいることに、居心地の悪さを感じているのか。それは、「後世に何も残さずに、自分の生の充実のためだけに自分のリソースを割いていること」に罪悪感のようなものを感じているからだと思う。

 例えば私はオタクであり、マンガやゲームがあり、またそれを語らう貴重な仲間や友人がいれば、死ぬまでにそれなりに充実した人生を送れるのだろうと思っている。しかし、今はともかく、例えば30年、40年後に享受するマンガやゲームやアニメは、ともすると今はまだこの世に存在していない人間が創作したものであるかもしれない。逆に言えば、新しく人間が生まれるからこそ、私は特に何もせずとも、死ぬまで新しいマンガやゲームやアニメを享受し続けることができる可能性があるのである。

 上記のような例を出すのは少しオタク叩きの感があり意地悪かもしれないが、別にこういった話はマンガやゲームだけではない。水道や電気といったインフラについても、その維持は現場の体力ある職人らによって支えられているのであり、仮にお爺さんお婆さんばかりになった世界では、インフラ維持の工事を行うことが困難になるだろう。
 また、スマホ等生活に欠かせない科学技術に係るイノベーションも、これまでの人間とは違った経験・知識・発想を持つ、新しい人間が現れてこそ起こるところもあろう。この現代世界では、これまでの時代と比較して極めて、一人で自分の楽しみのためだけに生きていくことが容易になっている。また、そのように生きていくことは個人の自由である。しかし、その容易さを維持し、また発展させていくためには、どうしても新しい人間がこの世に生まれるということが必要なのである。

 急いで付け加えると、私はここで「子どもを作らない人間は責務を果たしていない」というような一般論を唱えるつもりは毛頭ない。自分の楽しみのためだけに生きる自由は誰もが持っている。「子どもをつくる」ということ以外にも社会に貢献する方法はいくらでもあるし、身体上あるいは精神的な理由で「子どもをつくらない」という選択を取らざるを得ない方々(私もいざ検査をしたら実はそうかしれない)が、他者から「責務を果たしていない」と評価されるような価値観など、決して受け入れられるものではない。また、そのような価値観は新しく生まれた子どもに「ゲームでもインフラでも科学技術でもなんでもいいから社会に貢献しろ」と厳命することにつながるが、それが生まれた子どもの権利・自由の不当な制限につながっていくであろうことは、容易に想像がつく。

 その上で、私はあくまで自分自身の生き方の選択において、「子どもを持たずにこのまま過ごしていいのだろうか」という気持ちを否定できないのである。そういう気持ちを他人にも持ってほしいとかそういう話では全くないこと、生む張本人である妻の意見が最大限尊重されるべきであること、および私たちのもとに生まれてくるかもしれない子どもの人生はあくまで子どもの自由意思に拠ることを大前提を維持した上で、自分の生き方を決めるにあたって、そういう感覚を抱いてしまうのである。

 ここまでお話を進めると、FGO奏章Ⅲをプレイされた方はなんとなく勘づかれたことであろう。私はFGO奏章Ⅲが提示した世界観に、共感に似た、しかしこれを「共感」を形容するには危うさもある気持ちを抱かされたのである。

2.奏章Ⅲが提示した「人類の終末」

2ー1.奏章Ⅲのエピソード

 奏章Ⅲ(というかその前フリである水着イベント)は、主人公一行が3017年のドバイにレイシフト(タイムスリップのようなもの)するところから物語が始まる。

 レイシフトの最初の目的はシンプルに「主人公の息抜き」であった。しかしいざ観光がひと段落すると、平和だったはずの都市の様子が一変。人間であると思われたドバイの住人は全員AIであること、また3017年時点で人類は既に滅亡していることが明らかになるとともに、目下AIも解明できていない「人類滅亡の原因」を特定するべく、7つの違った滅亡原因を唱える勢力による抗争の幕が上がるのである。

 これを受け主人公らは、その一部勢力の襲撃をかわしつつ、ドバイに残された過去1000年の歴史の解明に着手。その結果判明するのは、この3017年のドバイは私たちの世界とは異なる世界線にあり、私たちの世界よりもAIが急速に発展した世界であるということ。その結果、AIを頭脳に持つ機械人間を作り、これに実在する人間のデータをインストールすることで人間の不老不死を実現してきた(上記のドバイの住人はみんなこの機械人間だった)など、まさにSFのような歴史が紡がれてきたことが判明する。
 また、この過程では世代交代による人間のAIへの忌避間の消滅、あるいは逆に人間の上流階級が、AIによる急速な格差是正を恐れてAI使用規制を開始し、結果人類の90%が死ぬという破局を迎える、といったAIと人間との間のいざこざがかつてあったことも明らかになる。まさに今、私たちの世界ではAIの急速な発展がクローズアップされており、特に生成AIと人間との間のいざこざが増えているわけだが、上記の創作上の歴史はこうしたいざこざの今後について一つの可能性を示すものであり、それ自体興味深いものになっている。

 しかし、今回のエピソードのコアはAIと人間との間のいざこざではなく、その先にあった。

 というのも、上記の機械人間は人類に代わって人類の更なる発展のために技術開発を継続し、その結果人類とは別の、その次世代ともいうべき生命の種(本作は「アーキタイプ」と呼称)の開発に成功している。しかし、この生命の種を発芽させることは、人類を旧世代の生命として捨て去り、新たな生命を地球に君臨する次の霊長として地球に根付かせることを意味する。したがって、あくまで「人類への奉仕」を目的に活動するAIは、自ら開発したアーキタイプの活用を拒否するのである。

 ここからFGOを含むFateシリーズ(というか原作者である奈須きのこ氏)の独自世界観が炸裂するのだが、このFGOの世界では「人理」なるこの世界を支配するルール(世界観の理解のために仮で「神」に置き換えてもいいのかもしれない)がある。また、この人理の下で複数の世界線が並行して存在している。
 しかし、その中で人類がうまく発展できなかった世界線があると、その世界線はいわば失敗作として、人理の下抹消されてしまうのだ(本作はこれを「剪定」と呼称している)。実際FGO第二部では、剪定されるはずの別の世界線が突然複数私たちの世界線に浸食してきたため、その浸食から私たちの世界を護る戦いが描かれてきたのだが、その別の世界線は、基本的には人口が全然増えなかったりしたなど、人類がまっすぐに発展できなかった世界ばかりであった。

 しかし、FGO奏章Ⅲではこの人理が逆に人類に牙をむいた。というのも、人理は実は「人類の発展」を護るルールではなく、よりスケールの大きい発展、すなわち「ある霊長が発展し、その結果次の霊長が生まれ、その霊長が前の霊長を継いでより発展していく」ことの反復を維持するためのルールであることが本エピソードで判明するのだ。

 だとすると、この世界は人類が事実上の不老不死を実現するにまで発展し、その結果アーキタイプ(次の霊長の種)の開発に成功しているが、しかしAIが「人類への奉仕」のためにその存在を抹消した時点で、その世界は人理に根本的に反するものとなる。したがって、剪定対象となるのである。

次の霊長を受け入れなかった世界に価値(ルート)はない。

 ゆえに、このことに唯一気づいた高性能AIは上記の抗争を企画。「アーキタイプの抹消」とは異なる「人類滅亡の原因」を、儀式としての抗争を通して「アーキタイプの抹消」に上書きして定義することで、人理による本世界線の剪定を回避しようとしたのだ。

 なぜそのようなことをするのか。やはり他でもなく、AIの存在意義である「この世界線の人類への奉仕」のためだ。

2ー2.紡ぐ側、紡がれる側

 上記の「人理」にまつわる新たな事実は一見後付けの設定のようにも見え、また人類の味方であったはずのルールを逆に人類の敵に転化する点でも、あまりに突然な設定開示にも思われる。

 しかし、この事実はこれまでFGOで描かれてきた世界観を振り返ると、個人的には腹落ちする内容である。それは、このFGOというゲームのシナリオには、「私たちが紡いできた世界は、間違っていることもあるかもしれないけれど、総体としては絶対に肯定できる」という思想が通底していると考えるからだ。

 一番わかりやすいのは第二部のシナリオである。上記のとおり、FGO第二部が描くのは私たちの世界線に浸食してきた別の世界線と対峙し、その浸食から世界を護る戦いである。しかしその浸食を止めるには、結局はその別の世界線の剪定を完遂させ、その世界線を消滅させるしかない。その浸食自体は、別にいる黒幕が仕掛けたものであり、その別の世界線の住人が企図したものではないにもかかわらず、である。そうなると、別の世界線の住人からしたら、主人公らは別にこちらは何もしていないのに一方的に世界を滅亡させようとしてくる、魔王以外の何者でもないのである。

 この主人公の魔王としての戦いについて、「その別の世界線はどうせ剪定対象だったはずの発展し損ねた世界だったのだから、そこまで悪いものではないだろう」という反論も可能ではあろう。
 しかしこの反論すらご丁寧に潰してくるのが第二部第五章である。ここで描かれる相手方の世界線では神の支配のもと人類が健康と幸福を享受しており、どう見ても私たちの世界よりもうまく発展している世界なのである。それでも、主人公らはその世界を最終的には滅亡させる。その世界を収める神から「この世界を滅ぼすことに何の正当性があるのか」と問われながらも、主人公らはそれに答えを提示できないまま、ただその世界を滅ぼすのである。

 このような戦いを、なぜ本作は「主人公らの戦い」として肯定的に描けるのか。それは、本作が「私たちの世界の継続性」を無条件に至上の命題として捉えているからではないだろうか。いや、そう捉えていないと第二部第五章の戦いを肯定することはできない。どちらの世界のほうが優れているとか、そういう比較が問題ではない。その世界の現時点の到達点うんぬんを超えて、とにかく「この世界は、私たちがなんとか紡いできて今ここまで継続しているという事実のみをもって、何にも代えがたく尊いものであるはずなのだ」という思想、それが上記のエピソードを支えているのだ。

 こうした意識は第一部でも既に示されている。
 第一部では、消滅の危機に瀕した私たちの世界線を維持するべく、人類史の継続にとってキーポイントとなった時代にレイシフトしてその異常を取り除く戦いが描かれる。このうち第七章で描かれたのは、古代都市国家ウルクにおける、人類を侵略する魔獣との戦争であった。
 この戦争は凄惨を極め、主人公らとともに魔獣と戦ったウルク市民たちは、たとえ主人公らが勝ったとしても、一般人でしかない自らは全滅の危機に瀕することを知っていた。しかし、「自分たちが勝たないと私たちの世界が途絶える」「自分たちが勝てば、自分たちが全滅したとしてもこの世界は続き、人は発展していく」からこそ、ウルクの王ギルガメシュは市民らに戦いを呼びかけ、市民らはこれに応える展開が描かれた。ここでも、「私たちの世界が継続するし、そして発展していくこと」が、時に今を生きる者の生に勝るものとして描かれているのだ。

FGO第一章第七部アニメより。市民に戦いを呼び掛けるギルガメシュ王。

 こうした意識は、「過去の英雄を現代に蘇らせ、これを戦わせる」というフォーマットをとるFateシリーズが持つ、過去に対する精一杯の誠意なのだと私は考えている。
 過去には間違ったこと、「悪」とされることが数えきれないほど繰り返されてきたし、「反英雄」と言われるような存在もいる。しかし、それと同じくらい素晴らしいこと、「善」とされることもまた重ねられてきたし、その積み重ねがあったからこそ、私たちは今ここにいて、いろいろ問題はあるけれど、なんとか生きている。そのことだけで、人類が成し遂げてきた「時代を紡いでいく」という営為は、それを支えてきた過去の英霊たちは、本当に素晴らしいものなのだ。そういうリスペクトが本作には通底しているのだ。

 こうした思想は、私たちが「紡がれる側」に立っている限りにおいては居心地がいい。私たちはそれなりに健康に今を生きている。それは過去のみんなのがんばりのおかげです。ありがとう! そう言う分には私たちは具体的な労力を払う必要はないし、意地悪な言い方をすると、過去の人間の犠牲に一方的に感動することができる。
 しかし、この思想をただの都合のいいロマンチックな物語ではなく、強度のある一貫した哲学として確立するには、当然私たちが「紡ぐ側」に立つ場合のことを考えなくてはならない。そして紡ぐ側になるということは、時に第二部で剪定された世界線のように、あるいはウルク市民のように、この世界が引き続き継続するために、時に自らを犠牲にしなければならないということだ。自分は一切得をしないのに、未来に何かを残すために身を切らないといけないということだ。

 そういう一歩進んだ議論にFGOがついに手を付けたのが、今回の奏章Ⅲのエピソードだったのではないだろうか。
 これまでFGOは「今を生きる人類」を護る戦いを描いてきたがゆえに、過去(あるいは別の世界線)の犠牲ばかりを描いてきた。しかし、その犠牲が許容される理由を「この世界が歴史を紡ぎ、継続してきたことの尊さ」に求めるのならば、3017年を舞台にした今回のように「未来を生きる人類」を本作が描くとき、犠牲になるべきは今度は言うまでもなく私たちである。
 そして、未来を紡ぐために自分が犠牲になること私たちが拒否したとしたら。次なる生命(アーキタイプ)が生まれようとしているのに、私たちがそれを拒否しようとしたら。そのとき人理は私たちを断罪するべく、私たちの世界線を剪定するだろう。そういう終末論が、今回の奏章Ⅲでは描かれたのではないだろうか。

3.「紡ぐ側」になること

 こうした議論は極めてタイムリーなものではないだろうか。本エピソードでは、AIが人類のためを思って「歴史を紡ぎ、私たちの世界を継続させていくこと」を拒否し、結果世界線ごと人理に否定されるドラマが描かれた。しかし、今私たちが「将来に私たちにとって代わる存在」として恐れを抱いているのは、他でもなくこのAIのほうだろう。
 「将来AIが発展したらなくなる仕事は何か」といった議論はずっと前からなされてきたものではあるが、ここ数年で特定の画家の画風をコピーした生成AIが容易に構築できるようになるなど、特定の個人を失職に追い込みかねないようなAIの利用が現実的なリスクとして立ち上がってきている。不当に個人を失職に追い込むようなAI利用はあってはならないものだし、そうした事例が積み重なった結果、「絵を描く」という文化自体が衰退するようなリスクもあり、AIが私たちにとって代わることを防ぐべきケースは確かにある。

 一方で、将来人類社会においてより大きな、そして広い幸福が実現するためには、人間の代わりにAIが担ったほうがよい業務というのは確かにあるのだろう。簡単な例だと、奏章Ⅲで描かれた配膳・料理を行ってくれるAI搭載ロボットなんて各家庭に1台あればとても楽になるだろうし、大きな話になると一部に行政運営や法令・規則案作成をAIに委ねる、というようなことも今後あり得るかもしれない。
 そうした可能性を、例えば上記に挙げるような不当な使い方をせずに生成AIを利用したコンテンツを、生成AIを使っているというだけで炎上させるような仕草で潰していくのか、それとも特定の個人に犠牲が集中するようなことを避けながら、AIによる未来の発展の可能性を探っていくのか。「これからを紡ぐ側」に立っている私たちは、一つの岐路に立っているのだと思う。

 そして、ようやく冒頭の話に戻るが、こうした「紡ぐ側」に立つことに係る議論は、「子どもをもつこと」についていろいろ考えている自分にとって衝撃であった。冒頭で述べた「子どもを持たずにこのまま過ごしていいのだろうか」という私の懸念を、比べてものにならないほどに大きいスケールをもって、先回りして描かれてしまったのだから。

 私は我ながら幸福な家庭で育てられたと感じている。両親はいろいろあって今は離婚しているが、愛情をもって育ててくれたと思っているし、学校にもしっかり行かせてくれた。そんな恩に対して、今回のエピソードが議論したように、ありがとう!と思うだけで十分なのかな、という思い(負い目)が自分に対してある。できることならばその恩を、誰か別の人にお返ししたいと感じている。

 もちろん、その返す先が自分の子どもである必要はないし、何なら大人でもいいとは思う。しかし、やはりもともとこの世にいなかった人間がこの世に生まれるというのはものすごくインパクトのある話であるし、それがないと、私たちは全員老いて死んでいくのみである。だから、「人が生まれる」ということはそれ自体ものすごくめでたいことなのだと私は思っていて、何らかの形で子どもを助けるようなことができたらいいな、と考えている。

 ただ、今回のエピソードの議論はあまりにも壮大すぎて、「子どもをもつ」という個人的な話にそのまま適用することの危うさもまた感じている。「自らを犠牲にして未来を紡ぐ」、というのは道徳的に響きが良すぎて、これをもって「子どもをもつ」ことの意義を唱えることは、「子どもを持たない」ことを選択した、あるいは選択せざるを得なかった方々に対して後ろ指を指すような意味を持ちかねない。本記事はあくまで、ソシャゲをなんとなく遊んでいたらたまたま今の悩みに刺さってしまった、という個人的な営為を書き留めたものとしてお読みいただきたい。

 また、「子どもをもつ」ことに関連した話に限らず、「自らを犠牲にして未来を紡ぐ」ことを唱えることそのものに危うさがあろう。言うまでもなく、個人が一番優先するべきはその個人自身の幸福である。自らの幸福を過度に削ってまで他人に奉仕する必要はないし、それを「奉仕される側」が無闇に唱えるとますます始末が悪い。あくまで、奉仕する側が自らに課す指針として、唱えるべき事項なのであろう。

 しかしその上で、今回奏章Ⅲがこのような議論をしてくれたことを私はポジティブにとらえたい。
 上記のとおりこれまでのFGOは、主に「主人公らのために他者が犠牲になる」物語がかなり危ういバランスの上に成り立っていた。また、上記では言及しなかったが、第二部第六章では「仮に自分が守ろうとしている世界が間違っていたとしても、それが自分に与えられた役割なのだったらそれを果たすしかない」といった、決定論的な諦観も語られていた(以下記事ご参照)。

 そんな中で、「今」の存続を保障するに留まらず、「未来を紡ぐ」という積極的な営為が語られたこと。それは、このゲームの新境地であったと思う。

(終わり)

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