ハニロウ赤羽と「呼吸」のこと
純文学系の小説の公募をしていれば、一度ぐらいその名を聞いたことがあるだろう。なぞの投稿者、ハニロウ赤羽。
投稿者、というのは知らずに名前を覚えていくもので、たとえば有名なジャンプ放送局でいえば「哀☆戦士」とか「猫だまし!ぽん吉」とか。そしてかれらがたぶんそうであったように、妙な共犯意識のようなものが芽生えていく。
ハニロウ赤羽、は、小説の投稿をする私にとって、共犯のような存在だった。
純文学にかぎれば、これまで私が予選に残ったのは8度ある。当時の文芸誌に載った予選通過者リストを確認すると、うち3回でハニロウ赤羽と名前を並べていた(文藝・群像・太宰)。
そんなハニロウ赤羽の作品が、文芸誌「徳島文學」に掲載されたのだという。
さいしょ、私はそれを読むつもりはなかった。文芸誌を読むことは多々あるけれど、なにかイベントがなければ買わないし。あと、ハニロウ赤羽にたいする嫉妬のようなものがあったかもしれない。
そんなハニロウ赤羽が、いまは消えているが、「にゃんしーさんは読んでくれたのだろうか」とツイートされていた。
おどろいた。いまや誌面にも載っているハニロウ赤羽が一介のアマチュアにすぎない私のことなんぞ気にしているとは思ってなかった。気にしてくれていたのがうれしかった。すぐに徳島文學をアマゾンで注文した。
投稿者同士は、あえて下読みの依頼をするのでなければ、お互いの作品を読み合うことはない。最終候補ですら太宰をのぞけば誌面に掲載されないので、名前こそ知ってはいても、どんな作品を書くかは知らなかったりする。ハニロウ赤羽の作品もそうだった。徳島文學に掲載された作品のタイトルは「呼吸」といった。
ライフガード(プールの監視員のようなものだと思う)の日々を、男女それぞれの視点から一人称をクロスオーバーさせて書いたものらしい。泳ぐことのできなかった(どころか、生活すら満足にできなかった)女が男とのやりとりを経て成長し、やがて泳げるようになるが、溺れる人を助けることはついにできなかった…のあとにちょっとストーリーが続く。
ずいぶん素直な文章を書くんだな。そう思った。新人賞に求められるものは「新しさ」と「インパクト」だと言われている。だから尖った文章を書く人は(選考委員に苦言を呈されるぐらい)多い。そんななか、ハニロウ赤羽のてらいのない文章は新鮮に映る。目を開くような描写や比喩はないまま、端正な文章がていねいに刻まれていく。
なぜかうれしくなった。ハニロウ赤羽は、この素直な文章で20年間を生きてきたのか。最終の一歩手前に残ったことも何度かあるという。それはまぎれもない実力の証明で、不器用ながら真摯に生きてきた文筆人生の澄んだ結晶に他ならなかった。
呼吸することができる。そんな文章だった。息つぎの仕方を思いだした。こんなふうに誠実に、書いていいんだと思った。
なあ、ハニロウ赤羽。ここがお前の最終地点では、ないんだろ?もっと書けよ。俺も書くから。そしていつか、もうちょっと高いところで再会することができれば、大滝瓶太さんの賞金で飲みに行こう。