冬の光
私も順調に年をとっているようで、師走を迎え、このまま無事に年を越せたなら、それはめでたいことだと思うようになった。以前は安穏とした日常のひと続きでしかなかった年越しも、今は、大きな節目のように思える。日々は緊張の中で過ぎていき、余裕がない。
たいした仕事もしていないのに、絵という自由な生業と、家族のお世話という柔らかな響きのもの二つが、持ち切れるかどうかのぎりぎりの大きさで存在し、わたくしという小さなフレームからはみ出さんばかりに揺らいでいる。
もっとも、人生における仕事と家事とのバランスは、かつてと異なり後者に重きをおく方が良いと、今しがた読み終えた本には書いてあった。図書館で借りた本もずっと読めずにいて、期限が過ぎ返しに行った図書館の中で読んだ。借りた意味がないけれど、曲がりなりにも読めたのは良いことだ。図書館から自宅への移動中、母から連絡があり洗面所のドアが開かないと言う。ははあ、今度はそれか。
父は足腰の不安定さが増していて、ちょっとした移動でも見守りが必要になっている。私の留守の間、訪問看護やリハビリの対応、昼食の仕度もしながら父をみている母の負担は大きい。父は転倒してしまうと自力で起き上がるのが難しい。うまくすれば立ち上がれるが、そうでないと周囲のものが助け起こすしかない。背の高い父を小柄な母が起こすのは無理で、とにかく転ばないように、移動の時は後ろをついて歩く。それでも私が不在の、しかも夜に限ってそういうことは起こる。「お父さんが立てないの」と切羽詰まった様子で母から電話がかかってくる。
ああ、と落ち着かない心で、とりあえずやらなくてはならない事を片付け、親元へと向かう。日の落ちた夕刻に、あるいは月星の瞬く夜半に、胸いっぱいの気がかりと共に地下鉄に揺られるのだ。しかし少しずつ、そんなことにも慣れてきている自分がいる。何かのはずみで閉じた扉は、ドアノブを外して復旧できた。やれば、できる。やらなくては。
こんな日々は、つらいばかりでありそうなものだが、不思議なものでふとした瞬間の幸福感が以前より強まってもいる。
朝食のとき、夕食のとき。父が無事にテーブルについて、皆で食事を始めるとき。今が一番幸せなんじゃないか、とふと思う。おそらくは世間並み以上に、親たちと距離を置かずに年を重ねてきたけれど、これまでに感じたことのない思いだ。食卓から見える小さな庭には、朱い柿の葉が散り敷き、千両の黄色い実が陽に輝く。きれいだねえ、とともに目を遣る。まごうかたなき中年という年齢にして初めて、家族の幸せを感じている。
冬の光をいとおしみ、師走を生きていく。