映画「屍者の帝国」感想(ネタバレ)
早逝した作家、伊藤計劃が書いた三つの長編が、2015年に映画化されることになった。もともとは、作品が書かれた順、つまり、『虐殺器官』、『ハーモニー』、『屍者の帝国』の順で公開予定であったが、諸事情により、その逆の順になった。
しかも、『屍者の帝国』の映画化が決まったのは一番最後だった。おそらく、『屍者の帝国』が映画向きの作品ではなかったことと、純粋な伊藤計劃作品ではなかったことが原因ではなかろうか。
そのため、『屍者の帝国』の製作期間はかなり短いものだった。
小説の『屍者の帝国』は伊藤計劃と円城塔の共作となっているが、「共作」というよりは、伊藤計劃のスケッチを、親交のあった円城塔が勝手に完成させた作品だ。伊藤計劃が早々と死んでしまったからだ。その小説は円城塔のスタイルではなく、彼が伊藤計劃のスタイルに寄せて書いた印象を受ける。
小説中に現れる「フライデー」という屍者のキャラクターは、円城塔の投影(円城塔の生年月日が金曜だからではないか?)のようで、主人公のワトソン(シャーロック・ホームズに出会う前という設定)に仕えている。小説の中でワトソンとフライデーが旅する期間は3年ほどであり、それは円城塔が小説を引き継いでから完成させるまでの期間でもある。
映画の中では逆に、「フライデー」は死んでしまった伊藤計劃のようであり、それを蘇らせたワトソンが円城塔のようであり、二人の強い友情を描いている。
正直、映画に関しては、少し不満は残る。映画向きの作品ではないので、最初から諦めのようなものはあるが、脚本でもう少し頑張れたのではないかと個人的には思う。日本での戦闘シーンは小説の中で最も映像化しやすそうな部分だったので映画の中に入ると思っていたが、刀が体を貫通したときに「
内臓は避けました」っていう名ゼリフを入れなかったのには不満があった。その数年後の草薙剛のドラマでそのセリフを丸々パクられていた。映画で使っていたらパクられることも無かったのに。
ただ、円城塔は変人で、映画の出来を気にする人ではないようだ。勝手に変えてもらって良いです、みたいな感じで。
その後、『ハーモニー』、『虐殺器官』と映画が続いたが、後になるほど完成度が高かった。それは前作の反省などもあったのだろうか。『屍者の帝国』はちょっと「捨て石」のようになってしまった印象を受けるが、円城塔はきっと気にしないのだろうと思う。伊藤計劃の名前を少しでも広めることができて良かった、と言うのだろう。