計画が立てられない人が劇的に立てられるようになった話 ⑩: あとがき
この連載をやるに当たって裏で試みていたこと、考えていたこと。
数字と日付と時間をわざと多く入れ込む
今回の連載をするにあたって、自分の苦手な数字と日付と時間をあえてたくさん入れ込む仕様とした。
ブログ全体の番号、連載の番号、次の連載のアップ日掲載に始まり、わざと全てを予約投稿にし、どこまで間違えずにできるか試してみた。
確認作業は何度か行ったが、肝心なところは間違えなかった。たまに抜けた箇所や誤字はあったが、そこは私的には許容範囲だった。
自分はもっとできない人間だと思っていたが意外とそうでもなかった。
受け入れることと、改善することが敵対しないように
10回に渡って続けた計画についての連載。正直、私はもう計画を立てられない人ではないと思う。長期計画を立てるという点において課題は感じてはいるものの、予定の入れ間違いや、次に何をしたらいいかに時間を使うことが劇的に減った。
ところで、最近の医療をめぐる言葉を見ていると、疾患を受け入れることと、予防すること、あるいは問題を改善することがしばしば対立関係になっている時がある。
疾患の受容を強調したい人は、予防とか、今よりよくすることについてあまりいい顔をしないし、その逆もある。
でも本来これってクルマの両輪であるべきで、対立関係ではないはず。
というと、ケースバイケースとか、どっちも大切、みたいなありがちな言葉でまとめられがちだけど、もっとそこを丁寧に語れる言葉はないだろうか、と思う。
正直、私は今でも誤字に関しては人より多いと思うし、計画ができるようになったと言ってもめちゃめちゃ上手いわけじゃない。でもそこで劇的な改善は狙っていない。とはいえ、何も変えられないわけじゃない。
自分を名付けてしまうことの難しさについて
名付けというのは結構厄介で、名付けた途端にその人はその名の力で価値づけされてしまう。
例えば、私は「誤字会」とか言っているので、磯野といえば誤字と思っている人は少なからずいる。誤字なんて誰でもするものだけど(今日も、真穂が真帆になっている原稿チェックが回ってきた)、私が誤字をしたら、それはたまたまでなく、「磯野だから」ということになるし、そのせいで目立つだろうし、それで時には、笑いを誘うことになるはずだ。
今回「計画」について書いたので、自分なりにはできるようにはなったと思っているが、それでもなお、私が計画でミスったら、「計画が苦手な人だから」となってしまうだろう。
多分、こうなるのがいやで、人は自分の弱点を言わないんだと思う。
昨今弱さは開示したほうがいい、みたいな流れがあるが、私はちょっとその動きを斜めから見ている。
だって、そういうことをいう人たち、人には促すけど、自分ではしないんだもん。
とはいえ、それが人間という生き物なんだと思う。私たちは他者をパターン化して認識し、その上で行動する生き物だ。ネガティブなパターン化はネガティブに捉えられてしまいがちだ。
歳を重ねて思うのは、歳をとっても悩みも弱みも無くならないけど、それらを隠す技術だけは上がる。あるいは生活が安定してくるから、悩みや弱みの種は海底に沈んで見えなくなる。でも、日々減ってゆく生きていられる時間は、いつかどこかで「隠す」の限界を引き起こす。
ちょっと脱線したので話を戻すと、私は自分の弱点を言ったので、ネガティブに価値づけする人が出ることは仕方ないと思っている。でも、日付とか、時間は間違える可能性があるので(特にTwitter)、誰かがダブルチェックして、指摘してくれるのはありがたい。
ADHDという言葉について
多分、このブログを読んでいる人の中には、私にADHDの傾向があるとか、ADHDだとか思った人がいたんじゃないかと思う。一度言われたこともあるし、実際そうなのかもしれない。
が、私は最近いろんな病名が増えていることに辟易しているので、本当にこういう言葉はどうでもいい。(という私のような人に対しては「受容ができない」といった、やさしい言葉も用意されていて、まためんどくさい。)
それが心地いい人は使えばいい、と私は思う。
増え続ける病名にプラスの価値があることも認めるが、私には明確な理由があって、こういう病名の物語には入っていきたくはない。だから、この辺りの価値観の違いは、穏やかにすれ違いたい。
今後もますます病名は増え、それが止むことはないだろう。私たちは病名という小さな箱の中に入って・入れられ細分化され、その箱のそれぞれに対し、知っておくべき「配慮のマニュアル」が次々と作られていくはずだ。
こういう流れには、一定の敬意を払いつつ、自分はそれとできるだけ離れて暮らしたい。
頼み上手になった
計画の苦手さを改善しようと試みた結果、自分の仕事の詳細がよく見えるようになり、どのパーツを自分が引き受け、どの部分のパーツを頼むことができるのかがわかるようになった。
研究パートナーには、依頼内容がわかりやすいと感謝されている。これは想定外の収穫だった。
意外とみんな間違えているし、間違えないようにしている
今回、計画について色々な人に話を聞いてみてわかったのは、当たり前のことなんだけど、間違えない人は、何度も確認をし、1日に何回もスケジュールを見ているということ。(なので私もかれらの真似をして何度も確認するようにした。当然間違いは減った)
一番びっくりしたのは、本当にしっかりしている、と思っていた人が、時には前日緊張しちゃうくらい予定を確認していたことだった。
あと、絶対間違えなさそうな友人が1日予定を間違えていたこともあり、みんな間違いなんてするんだな、と思った。間違えちゃいけない今の社会ってやっぱ大変。
アウトラインが作れないのは、書いている文章の性質の問題だった
私はかねてから、自分はアウトラインを作れない人間なんだろうと思っていた。本のアウトラインとか、本当にできないし、作ってもその通りになったことなんて一度もない
が、どうやらそれは書いている文章の性質によるらしいことがわかった。
この連載のアウトラインはあっという間にできたし、その通りに書けたし、大して時間もかからなかった。
苦手なことに少し長めに挑戦してみるのは面白い
今回私は、これまで自分があまり試したことのないことに色々挑戦してみたわけだけど、その過程は結構面白かった。違う自分を見せると、人も違う反応をするし、それも面白かった。別に何でもかんでも挑戦すればいいわけじゃないと思うけど、苦手なことを克服したいと思っている人は、ちょっと長い期間、ゆっくりやってみるといいんじゃないかな。
ということで、10回に渡って続いた連載(「おやすみエッセイ」から数えると31回)は以上です。これからはもっと緩やかに更新をしていきます。読んでくださった皆様、ありがとうございました。