【テニプリ】無我の境地とはなにか
序論
■⚠注意⚠
このブログには仏教・ゾーンなどの記述がありますが、専門外の者が書いています。なるべく文献に沿って記述いたしますが、間違いがあるかもしれません。ご留意ください。
■テニプリっていいな
この世界にはテニスの王子様という素晴らしい作品が存在する[0]。しかも私達は幸運にもその作品と同じ時代に生きている。まだ見たことがないという方は非常に幸運だ。初心であの楽しさを味わうことができるのだから。
ご存知ない方のために一応説明しよう。殆どのご存じの方は「無我の境地とは?」まで飛ばしてください。
テニスの王子様とは1999年32号より連載開始された漫画であり、名前の通りテニス漫画である。2008年14号の終了まで約9年間連載された。2020年12月時点で累計発行部数は6000万部を突破しており、テニス人口の増加に大きく貢献し、2.5次元演劇ブームの先駆け的存在にもなった。なお、続編は令和5年現在連載中である。(Wikipedia参照)
内容も面白いが何よりキャラが魅力的、作品に関するメディアミックスすべてのエンタメ力の高さ、作者や作品に関わる方々のサービス精神などがすごい。明らかに他作品を凌駕する。また、ファンの方も面白い印象がある(私調べ)。
もう連載開始から25年近く経つこの作品だが、今でもかなり人気だ。私のような新規のファンもいる。さらに現在でも同人即売会イベントも行われていて、二次創作活動なども盛んである。
私事で恐縮だが、私はごく最近ハマった。セカイ系ばかりでスポーツ系は全く見ない私でもめちゃくちゃハマった。熱中するものなど少なくなってきたと思った矢先、なにかに取り憑かれたようにハマった。最高の推しもできた。何とは言わないが、ぎりぎり若者認定されるくらいの歳で初めてなにか(?)の扉も開いてしまった。人生に光が差し込んだが、時間と貯金は減る一方だ。めちゃくちゃ最高。スーパーインドアライフ。パーフェクトオタクライフ。本当にありがとうございます。
テニスの王子様の魅力について語ることはこれくらいにして、本題へ移る。
■無我の境地とは?
テニスの王子様(以下テニプリ)では、無我の境地という現象が出てくる。テニプリ内での無我の境地とは、簡単に言うと身体が無意識に反応してしまい、他選手の技を使用することができたり、身体能力が上がる現象である。
まず無我というと思いつくのは仏教である。無我(≒空)は仏教ではとても大事な思想である。
また、テニプリは仏教と関わりが強いと考えられている。主人公の越前リョーマの実家は寺である(父は代理住職のようだが)。その他もあるが、本題から反れるので割愛する。
そこで仏教の無我の境地というものと、テニプリの無我の境地が関係あるのかと疑問が湧くと思う。
しかし、関係あるのかは簡単にはわからない。なぜなら無我状態を含めた仏教体験は言葉で表すのが非常に難しく、定義できないからである[1]。
ただ、無我というものを限界まで言葉で表現したものがあった。唯識学である。
唯識学とは大乗仏教の教学の1つであり、唯識とは
「唯だ識、すなわち心だけしか存在しない。自分の周りに展開する様々な現象は、すべて根本的心、すなわち阿頼耶識(アーラヤ識)から生じたもの、変化したものである」
と主張する思想である[2]。
これだけで分かる方はそう多くないはずだ。しかし、本当に説明するとブログ一個分以上になるので、大変申し訳ないが理解したいという方は参考文献の本を読んでいただきたい。
私は唯識学を本で学びながら、禅体験を行った。その結果、テニプリでの無我の境地との関連性が見えてきた。
そのため、このブログでは、テニプリ内の無我の境地と仏教での無我について整理するとともに、仏教的視点で無我の境地の説明ができるかを記述する。
また、私の禅体験や、友人たちの話、ゾーンに関する論文を読んでいると、スポーツでまれに起こるゾーン状態と仏教の無我状態はほぼ同一のものと考えた。そのため、ゾーン状態≒無我状態と仮説を立て、考察を行った。
なお、新テニスの王子様でも無我の境地について記述はあるが、今回考える範囲は無印(テニスの王子様)の範囲とする。
概要
まずはそれぞれの用語について整理した。それらより、テニプリ内の無我の境地の記述と仏教のそれについて、直接的な関連はないと考えられた。そのため、仏教的視点からテニプリ内の無我の境地を考えられるか考察した。
次にテニプリファンの間では無我の境地の正体だと言われてきた、スポーツのゾーンの現象について整理した。そこから仏教の無我状態に起こる現象と、ゾーン状態の現象は近いことが分かった。それより、テニプリ内のその現象を、ゾーンに入った状態と同一(もしくは近いもの)と仮定すると、仏教的な視点でテニプリ内のその現象は説明可能なことが分かった。
無我に関するあれこれ
■テニプリ内での無我の境地について
まず、用語を整理する。まずはテニプリ内で定義される無我の境地についてから記述する。いくつか情報がある。
また、無我の境地になった際の副産物として、真田はこうコメントしている。
他にも記述はあるが、説明が似ているため割愛した。
このことより、テニプリ内の無我の境地の時の状態は、
「身体反応で直接反応し、ランダムに他選手の使った技が出せるが、限界を超えてやっているため、体力消耗が激しい」
といったところか。
■仏教内での無我について
次に無我とはなにかということを仏教(唯識学)で説明すると下記である[1]。
エゴイズムを超えること
実体としての個は存在しないこと(結局すべては一つであると悟ることを一如という)
実体視・絶対視され、執着の対象となるような自我の観念が無くなること
すべての存在と限りなくつながりあいながらある一時期あるかたちを表しているものとしての私という目覚めが生まれること
宇宙と自分とが一体なのだと本当に心の底からわかること(凡夫⇒仏陀になる)
つまり仏教(唯識学)内での無我の境地は
「自我を超えて、宇宙と自分とが一体であり、すべてのことと繋がっているのだと悟ること」
だと思われる。
■結局関係あるの?
テニプリ内の無我の境地の時の状態は、
「身体反応で直接反応し、ランダムに他選手の使った技が出せるが、限界を超えてやっているため、体力消耗が激しい」
だった。
また、仏教では無我の境地は
「自我を超えて、宇宙と自分とが一体であり、すべてのことと繋がっているのだと悟ること」
だった。
上記よりほぼ繋がりがないと考えられる。
…とするとここで話が終わってしまう。
そこで仏教の視点からテニプリ内の無我の境地の状態のようなことは起こるのかということを考察する。
一応断っておくと王子様や王様(キング)が言っていることは間違いと言っているわけではない。彼らが言っていることが全てだと思われる。ただ、仏教的にこの現象が説明できるかを検証したい。さあ挽回だ!
考察
■選手たちは宇宙を悟るか?
仏教では無我の境地は「自我を超えて、宇宙と自分とが一体であり、すべてのことと繋がっているのだと悟ること」だった。
ここで捕捉すると、仏教の言う宇宙の一体化というのは物質的なものにとどまらず、生命や心とも繋がっていることである[1]。
また、テニプリ内では、無我の境地に至ると他の選手の技を出せるということもあった。
このことから、宇宙と一体化していることを悟れば心が繋がり、他の選手と繋がり、選手たちの技が使えるようになるのでは?と考えた。
いやいや流石に宇宙と一体化していることを悟っても他人の技は出せんだろう、と思うのは当然だと思う。
実際私が調べた仏教の範囲でもそのような記述はなかった。しかし、スポーツでいうゾーンを調べた結果、それらは似たような現象が起こることが分かった。
じゃあ仏教は関係ないんかい!とお考えだろう。一応繋がりはありそうなので安心していただきたい。
■ゾーンと仏教の関連性
・ゾーンについて
まずゾーンの定義から記述する。スポーツ心理学においての記述は「緊張とリラックスのバランスが適切に取れた状態であり、高い集中力を維持するものである」とある[3]。
また、ゾーンに入るとスポーツを行っている当事者のベストパフォーマンスを生むことに貢献する[4]。
しかし、ゾーンに入った時の体験は1つではない。まずゾーンには浅いものから深いものまである。浅いものだと集中力が増すなどであり、深いと感性的・霊性的になる。
次にプロのスポーツ選手のゾーンにおける感性的体験について、表を見ていただきたい。
表より、なにやらスピリチュアルなことがたくさん書いてある。正直信じにくい(なにをいまさら)。
私はスポーツとは無縁の人生を送ってきた。そのためゾーンに入ったことはないので、この現象が起こったことはない。こういう現象が実際にあるかどうかを確かめるため、論文以外にもゾーンに入った時の現象についてスポーツ経験のある友人たちに聞いた。
90分のレッスンが一瞬で終わる感覚があった(ヨガ)
選手の間を抜くための道が見えた(サッカー)
絶対勝てるという感覚があり、打つときに球の回転が見えた(野球)
集中力が増した(テニス)
(他にも数学を解いている時、森に迷ったような感覚になったとも聞いたがスポーツでないため割愛する)
先ほどの表から、上記友人たちの体験でも16番、17番に近い状況であることが分かる。
つまり、スポーツをやっていたらある程度陥る可能性のある現象だとわかる。
・ゾーン状態と無我状態について
私事で恐縮だが、私は毎日坐禅をする。始めた理由は単純で、心を落ち着かせたかったことと禅に少し興味があったからである。その際にたまに坐禅をする際にゾーンのような現象になる。おそらく無我状態である。
言葉で非常に表しづらいが、自分の認識する1m程度の範囲が背中を含め360゜広がるような感覚である。やや深いときだと大きな木になるような感覚である。人からなんかモヤモヤしたものが見えるときもある。
認識範囲が広がるという現象は浅いゾーン状態の集中力が増すということと似ていると思われる。また、大きな木になるというという感覚と、モヤモヤしたものが見えるという感覚は、それぞれ表の8番と10番に近いと思われる。ただ、これは無我の"境地"までは到達していないと思われる。
因みに木になるという現象は、臨済宗の和尚に直接伺った。子曰く、修行していたらよくあることだとのことなので勘違いではなさそうである。
また、論文には書かれていなかったが、いつかのテレビでフィギュアスケートの羽生結弦選手が試合の際に起こったゾーン体験についてこう答えていた[5]。
https://ameblo.jp/inakoshi17/entry-12819516328.html
のでブログを参照させていただいた。私の記憶と一致している。
羽生選手の言っていることが真であるとする。そうすると羽生選手は悪意や善意が伝わってくると話しているため、深いゾーンに入ると仏教の言う宇宙のようなものに繋がり、心でも繋がれるということになる。
また、論文にも無我の境地とゾーン状態の共通点が示されている[3]。
それらより、下記を仮定する。
【仏教の無我の境地≒ゾーン状態】
■ゾーン状態とテニプリ内での無我の境地の関連性
・ゾーン状態とテニプリ内での無我の境地について
さあ、次はゾーン状態とテニプリ内の無我の境地を結び付けよう。
…できなかった。おそらくちゃんと調べれば、ゾーンに入る状態とテニプリ内での無我の境地は同一(もしくは近い)ものだと考えられると思うが、限られた時間で調べても見つからなかった。力不足で申し訳ない。
しかし、ファンの間では下記リンクのように無我の境地はゾーンに入る状況と似ていると考える方も多いと思われる[6][7]。
さらに、真田が言うように、限界を超えてやっているのであれば、ベストパフォーマンスにはなっていると考えられるため、ゾーン状態になっている可能性も高い。もし認識できてたとはいえ、他人の技をすぐに使えるなんて離れ業は、己の限界を超えたときにしかできないだろう。
また、志岐らの論文[3]の表5には、ゾーンに入った状態に起こる現象を網羅的に整理しているが、ゾーンに限らずほとんどの霊性的体験は これに含まれると思うので、今回この表を理論の裏づけにすることは正直本当は避けたい。
念のため記述すると、テニプリ内での無我の境地は「オーラ」「直感」「超人性」「他者への影響」「一体感」などが当てはまる。
さらにこの論文にはゾーンの特性として「動きが自動的に、無意識的に行われる」という記述がある。これは、無我の境地に慣れていない選手が無意識になってしまうことや、技がランダムに出てしまうことに関係あるのではないかと考えた。
一応、[4]の論文に無我の境地=ゾーンに入ることの共通点の記述がある。しかし、この論文に記述がある無我の境地とテニプリ内のそれを似た現象言葉が一緒だからと言って安易に同じものだと決めてはいけないと思う。(というかそれが成り立てば今回「仏教の無我の境地=テニプリ内のそれ」となってしまうため、このブログ内のすべてのことが無意味となる)
そのためこちらも下記を仮説とさせていただく。
■テニプリ内での無我の境地との関連性についての再考
上記より
「仏教の無我の境地≒ゾーン状態≒テニプリ内での無我の境地」
と仮定する。
ここでテニプリ内の無我の境地の話に戻ろう。
テニプリ内の無我の境地は
「身体反応で直接反応し、ランダムに他選手の使った技が出せるが、限界を超えてやっているため、体力消耗が激しい」
であった。
一方仏教でいう無我の境地は
「自我を超えて、宇宙と自分とが一体であり、すべてのことと繋がっているのだと悟ること」
であった。
また、ゾーン状態であると、スピリチュアル的な体験をすると同時に、時には無意識になり、ベストパフォーマンスを発揮できる。
このことから、仏教とゾーン状態を元に考えると無我の境地に達した選手は
【宇宙と一体化であることを悟り時には無意識になりながら
ベストパフォーマンスを発揮し他選手と心と身体が繋がり限界を超えたため
他選手の技を使用することができた】
と考えられる。
こんがらがってきたので、簡素だが下記にまとめた。
※1羽生選手の例があるとはいえ、宇宙と繋がるとすべてのものと繋がってそんなことになるのか?そんな簡単に身体と心と繋がることになるのか?他選手もゾーンに入ったことがあるはずでは?浅いゾーンとか深いゾーンでどう違うのか?という疑問は最もである。これに関しては今回学習した範囲の仏教だけで説明できないが、仏教から展開していったウィルバーの理論について解説したい。(付録を参照)
※2ゾーン状態になった時、長い時間は入れないということをよく聞く。また、私も坐禅によって無我状態になった時の持続時間は15分程度である。その後は逆に集中力が無くなり、どうしても無我になれなくなる。この現象はテニプリ内の体力消耗が激しい(もしくは集中力がなくなる)という点に近いのだろうか。
結論
テニプリ内の無我の境地の記述と仏教のそれについて、直接的な関連はないと考えられる。しかし、仏教とテニプリ内のその現象を、スポーツのゾーン状態と同一(もしくは近いもの)と仮定すると、仏教的な視点でテニプリ内のその現象は説明可能なことが分かった。というかほとんどゾーンで説明できるため、仏教的視点が必要が分からない。
また、ほとんどの方がご存じの通り、無我の境地の奥には三つの扉がある。こちらに関しては検証しきれなかった。また、会場外の選手の技を使うシーンがあることから、心で繋がる範囲についても考察したが、記述できなかった。別の機会に調べたところまでメモ程度だが記述しようと思う。他にもやり残したことは多いため合わせてできるだけ記述する。
今後もテニプリの議論が発展していくことに期待する。
後日、補足を記述した。
・無我の境地の奥にある三つの扉
・無我の境地で他選手の技を使用できる範囲について
・宇宙と集合的無意識について
について考察している。興味があればこちらも見ていただきたい。
謝辞
私はテニプリのお陰で人生が豊かになりました。原作や先生も素晴らしいですが、元々テニプリを見ていた友人達との会話やネット上での考察、公式非公式共に人それぞれの思いで描かれた作品、すべて楽しく、また非常に勉強になりました。このブログを含め、色々な事にも挑戦しようと思えました。
今回ゾーン状態の経験を話してくれた友人達、ブログを公開する前にチェックしてくれた友人達、テニプリに関わる皆様、仏教に関わったすべての方々、また、仏教に則り、過去未来に渡ってすべての存在に感謝いたします。本当にありがとうございました。
なお、間違いや質問がございましたら、どうぞ遠慮なくお送りいただけると幸いです。観測が難しいこのブログを見つけていただいたのも縁だと思います。テニプリに関しても超初心者なので間違っているかもしれません。よろしくお願いいたします。
また、大変申し訳無いのですが不勉強ですので、すべてのご質問にお答えできるかわかりません。できる限りお調べして回答いたします。
付録
■ウィルバー理論について
仏教からはみ出して申し訳ないが、ウィルバーの理論を補足させていただこう。
ケン・ウィルバー(1949~)はアメリカの思想家である。主にトランスパーソナル心理学の研究をしているが、元々生物化学を専攻していたようだ。若い時は、禅の修行を取り入れながら、東洋宗教と西洋心理学の統合を目指したようである。
ウィルバー理論に関しては、自我と無我[1]をベースにしている。
・コスモスのホラーキー構造について
ケン・ウィルバーが提唱したホラーキー構造というものがある。話すとかなり長くなるので今回関係ある部分だけ掻い摘んで説明する。
ウィルバー曰く、「無我になり、自我を超えた大いなるものと一体化する」ということは、コスモス("K"osmos:物質的なものだけじゃない宇宙、つまり仏教の宇宙と同義だと思われる)と一体化することとのことである。また、そのコスモスは物質主義的な範囲ではなく、生命や心の範囲を含む。
ウィルバーの考えるコスモスの構造は以下のホラーキー構造を有している。
それには図のように物質圏・生命圏・心圏・神圏という階層がある。
そういう全階層を含んだコスモスの最先端、あるいは最高の達成として、コスモスとの一体感・宇宙意識・覚りがある。
つまり、本当に無我の状態(覚れた)になった場合、コスモスのすべての階層と自己が同一であると自覚する。
・意識の発達段階について
しかし、そんな簡単にこの状態にはならない。なった人物は仏陀クラスの歴史上人物だけに等しい。
やはり、つながる範囲も無我状態の深さと同じで深度がある。つまり、スピリチュアルな体験も発達段階があり、四段階ある。
その四段階を心霊的段階、微妙段階、元因的段階、非二元段階としている(図参照)。
詳しいことは省くが、文献[1]曰く無我の状態は元因段階である。つまり無我は「自分を超えた大いなるものと一体感を覚える段階(宇宙と一体)」となる。
※非二元段階は一体化した後、様々な形に現れそれらが自分と別のものではないと自覚するらしい。
このホラーキー構造と発達段階が対応していて、元因段階の時は心圏に対応するため、心が繋がるのである。
…としたかったが、正直よくわからなかった。自分が読んだ範囲では感覚的にそういうものかと理解したことと、ウィルバーの書籍[8]で
「私は、段階の代わりに領域という言葉を用いることもあれば、圏という言葉を用いることもある」
と記述があったため、おそらく上記理論は間違っていないと思われる。しかし、自信はないため、仮説とさせてもらう。
上記の理論の例で、先ほどの羽生選手の件を挙げる。羽生選手は観客の眼球の動きや心が伝わったと話していた。そのため、深いゾーン(無我の境地)になり、少なくとも会場内で心圏まで繋がったのだと考える。
■テニプリに登場する他の現象と無我について
テニプリ内では無我の境地以外にも、無我状態になっているような場面がある。それについても考察する。
・同調(シンクロ)
全国大会氷帝戦で初登場。無印テニプリでは大石菊丸ペアのみ使用。走馬燈のように二人で過ごした過去を振り返り、同調に至った。いやあ最高ですね。
同調は榊先生が下記のように説明してくれている。
特徴としては下記である。
掛け声やアイコンタクトなしでプレー
無意識でプレー(菊丸曰く、二人で雲の上のようなトコにいてスッゲー楽しかっ…あれ?)
白いもやもやしたものが二人から出ており繋がっている
相棒のコンディションが分かる
アニメでは菊丸の癖のラケット回しを菊丸と同時に大石も行う
以上より、本論での考察結果から無我の境地までは行かずともお互いの意思を共有できていることから、心圏で繋がっていると思われる。
ここで、疑問としては
「なぜ他の無我の境地と違い、ランダムではなくパートナーと選択的に繋がれたのか」
というところである。
私のアンサーとしては、完全に理屈じゃなくて希望だが、培ってきた二人の絆であると考える。以下オタク特有の早口で語るので、飛ばしていただいて構わない。
大石は人助けをした際の手首の怪我より、長らく試合をできなかった。復活してもまたぶり返し、最初は全国大会を諦めていた。しかし菊丸は他の選手とダブルスを組んだり、シングルスで試合をしたりと様々なことに挑戦し、視野を広げた。その際に大石の大切さに改めて気が付き健気に相棒の帰りを待った。その後の同調である。
ペアプリでも「菊丸が大石へ抱く愛情と信頼は深い」と記述があり、菊丸の大石の思いは並大抵ではない。
大石ももちろん相棒のことは大切である。長くなると良くないので簡素に話す。
菊丸が煽られたとき、いつもは温厚なのに「キサマ!」と声を荒げたり、いつか一緒にテニスをできなくなっても「俺達は何があっても黄金ペアだ!!」と宣言した。
い、いい話じゃねーか…!(宍戸)
または、仏教の「手放す」ということに関係があるかもしれない。
仏教では「手放す」ということが非常に重要である。
色々なものが欲しい、自分でコントロールしてやろうということではなく、そういう意識を手放す。これらは自我である。そのために坐禅を組み、無我になろうとするのである。
そのため、無理やりこじつけるとすると、無我状態になったことにより取捨選択ができるようになったので、絆を頼りにパートナーとだけつながることができたのではないか。
以上より、オタクの感情論の部分が色濃く出たが、同調も無我になったような現象である可能性が高い。
・不二VS切原戦の不二について
関東大会立海戦の不二VS切原での不二に起こった現象について気になる点がある。
この試合で不二は切原のラフプレーにより、ボールが頭に強くあたってしまい、何も見えない状態で試合を続け勝利する。
不二曰くその際に一時的に視力が低下しているとのこと(Genius 219)だが、ほぼ見えていないと思われる。
普通ならプレーできないが、なんと不二は見えないままプレーを続ける。
普通なら到底信じがたいこの現象だが、
ボールを気配のみで的確に返している
極限状態まで神経が研ぎ澄まされている
などの記述がある。
この状態は私も経験があるが、浅く無我に入った状況、つまり物質圏で繋がった状態だと思われる。
それにより、ボールの気配を感じ取り、持ち前の才能によりプレーできたと思われる。
もちろん私はそんな状態でボールを打つことはできない。不二は本当に天才だった。
参考文献
[0]許斐剛(1999-2008) . 『テニスの王子様』全42巻 .集英社
[1]岡野守也(2001) . 『自我と無我―「個と集団」の成熟した関係』 .PHP研究所
[2]横山紘一(2016) . 『唯識の思想』 .講談社
[3] 志岐幸子 『トップパフォーマー達の「ゾーン体験」に見る「感性」の再考』, 人工知能学会誌 28巻6号 (2013), pp.862-871.
[4] 志岐幸子, 福林徹 『いわゆる「ゾーン」における感性的体験に関する一見解』, トランスパーソナル心理学/精神医学Vol.13 No.1 (2013), pp.114-130.
[5]“ゾーンに入る”.フィギュアスケート応援(くまはともだち).2023-09-07. https://ameblo.jp/inakoshi17/entry-12819516328.html, (2023-11-08アクセス)
[6]“無我の境地”.テニプリの宮.2013-1106. https://tenipuri-miya.com/%E7%84%A1%E6%88%91%E3%81%AE%E5%A2%83%E5%9C%B0/, (2023-11-07アクセス)
[7]“天衣無縫の極みについて考える_人生のたどり着くべき場所への到達”.超解釈テニスの王子様 人生哲学としてのテニプリ(namimashimashiのブログ).2019-01-05. https://namimashimashi-tpot-373.hatenablog.jp/entry/2019/01/05/032649, (2023-11-07アクセス)
[8]ケン・ウィルバー(著)加藤洋平(訳),門林奨(訳)『インテグラル理論 多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』.日本能率協会マネジメントセンター