新しい感情の創造
今日の感情は?iPhoneに毎日聞かれる。左右のシークバーを動かして感情を記入できるのだが、本当にそんなもので感情は表せるのだろうか。できない。なぜなら、ぼくの今日の感情はラフマニノフだから。ラフマニノフのエーテルが今日のぼくと酷似している。でも、感情一覧にラフマニノフはいない。ぼくは悔しい。
倫理の参考書を見ていると大昔から人々がMBTIのようなことを真面目にやってきたことが書いてある。つまりそれは、名前のないものに名前をつけること。それはあらゆる学問で行われてきたことで、その営み自体が学問とすら言えるのかもしれない。ぼくは初めてMBTIを見た時漠然と嫌悪感を抱いた。人間を4文字で表せるわけがないだろうと。
でもよくよく考えてみれば、ぼくが今使ってる言葉も有限で、誰かが考えだしたものを使っているのにすぎない。ウィトゲンシュタインやフーコーが言うように、思考は言葉に支配される。
人々はMBTIという言語で人格を簡単に捉えられるようになった。それが必ずしも悪いことだとぼくは思えない。なぜならこれまで、その種の言葉は難解で、多くの人のコンセンサスがあるとは言い難かった。そこにMBTIというわかりやすい言語が登場した。それによって人々は人格や内面に、より関心を寄せるようになったのではないだろうか?
内省的な人間は総数として、増えたと言えるだろう。哲学やその種の学問を愛好する自分としては、それはとても良いことだと思う。
一方MBTIは単なる一言語であり、人間の無限の可能性を捉えることは依然としてできていないという点を忘れてはならない。MBTIは依然として不十分である。ここでラフマニノフの話と繋がる。MBTIだけでなく、あらゆる言語は有限で、感情の無限さにはおいつけていない。
この世界に、ラフマニノフという感情は今までに存在しなかった。(あるいはしたかもしれないが、ぼくは知らない)
感動でもなく、郷愁でもなく、寂寥でもない。ラフマニノフの音楽を聴くことでしか得られないような感覚。まだ名前のついていない、その感覚。それをぼくはラフマニノフと名付けることによって、世界に対して自分の感情を定義できた。
ぼくはこの方法を広げたい。言葉の可能性を超えて、感情を表現し、誰かに伝えたえる方法を広げたい。ぼくの使っているエーテルは岩井俊二のいうエーテルなのだけれど、つまり作品やアーティストが持つエーテル(ニュアンス、引き起こされる感情)を感情の言語として使っていきたい。もちろんそれは規定された言葉のように、確定的な意味を持つわけではないから、多くの人には伝わらないだろう。でもその分、奥行きはあるはずだ。
和歌の世界では感情を、情景を使って表現した。それは言い換えると、情景のエーテルを言語としたということだ。つまりぼくのいう方法は無理ではないし、1000年も前からある方法だと言える。
納得していただけただろうか。感情は既存の言葉に縛られるほど貧しくない。さぁ無限の感情を表現しようではないか。MBTIなんかじゃなくて、音楽で、映画で、小説で、詩歌で、感情を表現しようではないか。その先には無限の世界が待っている。私は今カネコアヤノの抱擁という気分だ。