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女子サッカー選手のセカンドキャリア【GKコーチを選んだ経緯】

皆様、新年があけて1ヶ月が経とうとしておりますが、いかがお過ごしでしょうか?
きっと正月の餅も食べ終わり、新年の目標も立てちゃったりしていることでしょう。

私ですか?

私の新年の目標には「noteは1ヶ月に1記事投稿」

物事に追われることが特技としてやらせてもろてるので、もう1月31日ですわ。

2025年も笑いと少しの反省を交えながら、無理せず、でも少しずつ前進できるような年にしていきたいと思います。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。


2025年最初の投稿は私がGKコーチを選んだ経緯についてです。



こちら衝撃でしたね。

選手の引退というのは順番ではないのです。年齢ではない。

文言を見る限り、彼女の今後の人生にはワクワクが詰まっていそうですね。

私の引退は彼女のようなポジティブ引退ではありませんでした。




衝撃的な怪我と引退

2009年 伊賀フットボールクラブくノ一を引退した。

椎間板ヘルニア、腰椎すべり症、腰椎分離症が私をじわじわ引退へと追い詰める。

1年の半分は魔女の一撃と呼ばれるぎっくり腰を患い、これでもかというほど魔女に殴打されていた。

二足歩行がやっとで、股関節、膝へも痛みが広がっている。

そんな中で練習をやっていても、できるプレーが減っていく毎日に心を削がれていった。

もう自分でもわかっている。

どんなに練習しようがリハビリから復帰しようが、ベンチにすら入れなことを。
自分の実力はこのチームにレベルに及ばないことを。

心は完全に暗黒期。

それでも自分自身を奮い立たせ練習に向かう日々だった。

とある練習で、ポジショニングを修正しようとバックステップをした瞬間

今まで経験したことのない痛みが襲った。

痛すぎて息もできない。でも練習が続いてるから自分からピッチに出なければいけない。

もがきながらピッチ外に出たものの、その日はトレーナーがいないので順番を待つチームメイトが変わるがわる声を掛けてくれるだけで、スタッフ陣は誰も私のところへ駆けつけてはくれない。

その日は監督とコーチしかいないので、私のとこに来ては練習が止まってしまう。

そこでコーチが出した答えは


ゴール裏の草むらにそっと磯上を放置した。

私は人生で初めて草むらで「待ってて」と言われた。

子供の頃のかくれんぼを思い出す。

これは走馬灯なのか?

浅い呼吸を繰り返し、練習が終わるのを草むらで待つ。

夜間の照明でまったく見えない星を頑張って探しながら、時が過ぎるのをただ待つ。

流れ星でも見れたら即唱えるだろう。

「草むらから出して」

もう限界なのかな。

心も身体も。


まみ少女は小学6年生の時に初めて見た女子サッカーの試合で

そのかっこいい選手の姿に心を打たれ、将来の夢は【女子サッカー選手】になった。

あの日の自分に、こんな情けない姿を見せたくない。

後日、診察した結果

股関節の亜脱臼。

「交通事故ぐらいの衝撃を受けてなるような症状ですけどね」

医者が言った。

わたしは、バックステップほどの弱い衝撃で股関節脱臼するのか。

もう限界だな。

こうして私は引退を決意した。

股関節亜脱臼していない時(当たり前)


職業選択の優先順位


運動をまったくしない家系から突然変異で生まれたアクティブ末っ子まみは、

体育大学を卒業して手に入れた印籠がある。

保健体育の教員免許だ。

私はこの印籠を持って、安定した公務員になった。

お父さん。お母さん。

私、教員になる。


お金エピソード

現役時代は本当に本当にお金がなかった。
サッカーをやってもらえるお金は1円もない。
練習着も、スパイクも、キーパーグローブも全て自分で購入する。

フルタイムで働いたお給料だけが収入なのだが、パートタイムでしか雇ってもらえないので、本当に給料が少なかった。

野に生えるつくしを佃煮にしてやろうかと考える。タダだし。

名阪国道で轢かれた鹿を見て「捌いて鹿肉を食べたい」。タダだし。



なんとか監督に紹介された物件に住んで家賃を抑えていたが
耐震強度の問題で取り壊しが決定した。

私は住む場所がなくなり、監督の知り合いの倉庫に住んだこともあった。

倉庫なので、靴を脱がなくてもいい。コンクリートなので。
いいじゃん。アメリカっぽいじゃん。国旗飾っちゃう?

洗濯機を置く設備もないので、クラブハウスで洗濯をした。
水道代浮くしラッキー

こんくらいなんともないさっ!!!と自分に言い聞かせ、田んぼのど真ん中に建っている倉庫から練習に向かっていたが、心は限界を超えていた。

胃を壊して入院をした。

まじでお金って大事。

衣食住が整っていないと人間は心が崩れるのだ。

靴を脱いで生活する当たり前のことに感謝をした入院生活だった。


夢と現実

引退した私は指導者の勉強をしようと東北に戻った。

なぜ指導者を選んだのか?

サッカーに未練があったし、サッカーがなくなる生活が怖かった。

今から専門学校に行って鍼灸の資格を取るほどのお金の蓄えはない。

まずは資金がなくても始められそうな指導者でいいか。

非常勤講師で授業を教えていた経験もあったので、指導に対しての抵抗はない。

将来のプランもなく、とりあえず指導者になろうという浅はかな考えではうまくはいくはずがない。

指導はボランティアで行い1円ももらえないが、毎日夕方から、土日はフルでグラウンドにいた。

選手と接している時間は楽しいし、やりがいは感じたが、食べる物に困るぐらいお金がなかった。

この先もずっとこんな生活なのか?

指導者はお金にならない。生活できないのだ。

夢のある職業ではない。

将来のプランもなく、なんとなく指導者を選んだ私はきっと罰が当たったのだ。

私は指導者を辞めた。
指導者にもなりきれなかった。


地元に戻ったが、何も楽しみもなく、朝起きる意味すら感じない。

今日一日何も楽しみがない生活を送ることに苦痛を感じていた。

そこでまずはしっかりと生活が成り立つぐらいのお金を稼がなければと思った。

あ、教員免許あるわ。

教員になろう。公務員ですから給料高いのでは!!!!!

もしかしてボーナスもある?!

働く前から生徒が諭吉に見えそうだった。(その時代の1万円札は福沢様です)

お金  > やりがい
です。人生は。



余計なお喋りエピソードが多く、2000文字を越えたので後編へ続きます。
前編で指導者をそそくさと辞めた私がどうやって指導者に戻ったのか?
お楽しみに!!!!!!!










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