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1823年、イギリス海軍のビーチー艦長が訪れる3年前に、アメリカの捕鯨船「トランジット」のコフィン艦長がこの群島を訪れました。

With respect to any claim of sovereignty that may be founded upon the right of previous discovery, there is abundant evidence to prove that these islands were known to navigators as early as the middle of the sixteenth century, and were visited by the Japanese in 1675, who gave them the name of " Bune Sima."—(See enclosed extracts.) In 1823, three years before the visit of Captain Beechey, in H. M. ship " Blossom," the group was visited by a Captain Coffin, in the American whaling ship " Transit." * Thus it is plainly shown that the government of her Britannic Majesty cannot claim the sovereignty upon the ground of discovery, and it only remains to determine how far this right may be derived from the ceremony performed by Captain Beechey. But these are matters only to be discussed by our respective governments, and I refer to them now merely in explanation of our conversation of yesterday. With respect to my purchase of a piece of ground from Nathaniel Savory, though conceiving myself in no way bound to explain such arrangement, I do not hesitate, in all due courtesy, to say, that the transaction was one of a strictly private character. In acquiring the fee of the land, I had not the slightest idea of personal profit, but made the purchase for a legitimate object, and to withhold the only suitable position in the harbor for a coal depot from the venality of unprincipled speculators, who might otherwise have gained possession of it for purposes of extortion.

先行発見の権利に基づくとされる主権の主張に関して、これらの島々が16世紀半ばの航海者によって知られ、1675年には日本人が訪れて「ブネ・シマ」と名付けたことを証明する十分な証拠があります(添付の抜粋を参照)。 1823年、イギリス海軍のビーチー艦長が訪れる3年前に、アメリカの捕鯨船「トランジット」のコフィン艦長がこの群島を訪れました。したがって、英国女王陛下の政府は発見の根拠に基づいて主権を主張することはできないことが明らかであり、残るはビーチー艦長による儀式によってこの権利がどれだけ派生できるかを決定することです。しかし、これらは各国政府によって議論されるべき事柄であり、私は昨日の会話の説明としてこれらに言及するだけです。 ナサニエル・セイヴォリーから土地を購入したことに関して、そのような取引を説明する必要はないと考えていますが、全ての礼儀をもって、その取引は厳密に私的な性格のものであると述べることをためらいません。土地の権利を取得する際、私は個人的な利益を一切考えておらず、正当な目的のために購入し、不道徳な投機家たちがそれを不当に高額で売却する可能性を防ぐために、港における唯一の適切な石炭保管所の場所を保持しました。」
要点:

  • 主権の発見に基づく主張には充分な証拠がある。

  • 16世紀半ばからこれらの島々は航海者によって知られており、1675年には日本人が訪れて「ブネ・シマ」と名付けた。

  • 1823年にはイギリスとアメリカの船が訪れており、発見主権を主張できないことが示されている。

  • 主権の根拠については各国政府で議論されるべき事柄である。

  • 土地の購入については私的な性格の取引であり、石炭保管所の位置を不正な投機家たちから守るために行われた。


この文書の内容は、領有権の主張に関する歴史的経緯と、土地購入の目的について説明しています。ポイントを整理すると、以下の点が重要になります。

1. 領有権の根拠

  • 発見の歴史

    • 16世紀半ばには航海者に知られていた。

    • 1675年、日本人が訪れ「ブネ・シマ」と命名

    • 1823年、アメリカの捕鯨船「トランジット」のコフィン艦長が訪問。

    • 1826年、イギリス海軍のビーチー艦長(HMS Blossom)が訪問。

  • 結論:イギリス政府は「発見」に基づいて主権を主張することはできない。

2. ビーチー艦長による儀式

  • 英国政府が主権を主張できるかどうかは、ビーチー艦長の儀式にどの程度の法的効力があるかによる。

  • ただし、これは政府間で議論すべき事項であり、筆者はあくまで説明として触れている。

3. 土地購入の目的

  • ナサニエル・セイヴォリーからの土地購入について:

    • 私的な取引であり、公的なものではない。

    • 個人的利益を目的としたものではない

    • 目的:投機家による不正な買収を防ぎ、石炭保管所として確保するため。

全体の意図

この文書は、イギリス政府による領有権の主張が「発見」に基づくものであれば、それは無効であることを強調しています。また、筆者自身の土地購入が、投機を防ぐための措置であったことを明確にし、領有権争いとは無関係であることを示そうとしています。

歴史的文脈としては、日本やアメリカも関与していたことが分かり、領有権問題の複雑さが浮かび上がる内容ですね。

ジェームズ・コフィン(James Coffin)船長は、1823年9月、イギリス・ブリストルを母港とする捕鯨船「トランジット号(Transit)」を指揮し、小笠原諸島の母島に寄港しました。 (ja.wikipedia.org)彼は、船主であるフィッシャー商会にちなんで母島を「フィッシャー島(Fisher Island)」と命名し、また、沖港を「コフィン港(Port Coffin)」と名付けました。 (ja.wikipedia.org)この訪問は、記録に残る中で小笠原諸島に寄港した最初の捕鯨船によるものとされています。 (nihongo.hum.tmu.ac.jp)なお、コフィン船長はアメリカ人であり、彼の訪問は小笠原諸島と欧米諸国との初期の接触の一例となっています。 (nihongo.hum.tmu.ac.jp)

1823年当時、母島は人間の定住者がいない未開の島でした。島の内部は熱帯性の森林に覆われ、多様な動植物が生息していたと考えられます。海岸線にはサンゴ礁が広がり、周囲の海域は豊かな海洋生物に恵まれていました。このような自然環境は、当時の航海者にとって新鮮で未知の世界であり、彼らの航海記録や報告書に詳細に記述されていることが多いです。

しかし、1823年にアメリカの捕鯨船「トランジット号」のジェームズ・コフィン船長が母島に寄港した際、島には先住民の存在は確認されておらず、彼は島を「フィッシャー島」と命名しました。 (ja.wikipedia.org)この訪問以降、母島は欧米の捕鯨船の寄港地として徐々に知られるようになり、後の開拓や定住のきっかけとなりました。

当時の母島の様子を直接描写した詳細な記録は限られていますが、その手つかずの自然環境は、後の探検家や研究者にとって大きな興味の対象となりました。現在でも、母島には多くの固有種や貴重な生態系が残されており、世界自然遺産として保護されています。



沖港(コフィン港)

1823年9月、アメリカの捕鯨船「トランジット号」のジェームズ・コフィン船長は、小笠原諸島の母島に寄港しました。彼は、母島の港を「コフィン港(Port Coffin)」と命名しました。 (ja.wikipedia.org)この「コフィン港」は、現在の母島の沖港(おきこう)に相当すると考えられています。沖港は、母島の南東部に位置し、天然の良港として知られています。当時の航海者にとって、沖港の地理的特徴や海洋条件が寄港地として適していたため、コフィン船長もこの場所を選んだと推測されます。

ェームズ・コフィン船長が1823年に母島へ寄港した際、具体的にどの港に停泊したかを示す明確な歴史的記録は見つかりませんでした。かし、当時の航海者は、島の地形や風向き、海流などを考慮して寄港地を選択していたと考えられます。島の北港は、天然の良港として知られ、戦前には北村という集落が存在していたことから、寄港地として適していた可能性があります。方、沖港も現在の主要な港であり、地理的条件が良好です。れらの情報を総合すると、コフィン船長が北港または沖港のいずれかに寄港した可能性が高いと推測されますが、確実なことは言えません。

1823年9月、ジェームズ・コフィン船長が指揮するイギリスの捕鯨船「トランジット号」が母島に寄港し、島を「フィッシャー島」と命名しました。 (ja.wikipedia.org)その後、19世紀に入ると、欧米の捕鯨船が小笠原諸島に頻繁に寄港するようになりました。1827年には、イギリス海軍の測量船「ブロッサム号」が小笠原諸島を訪れ、測量を行っています。 (iwojima.jp)1830年には、ハワイのオアフ島から欧米人5人と太平洋諸島出身者25人が父島に入植し、定住を開始しました。 (ja.wikipedia.org)その後も、捕鯨船の寄港や遭難者の漂着などを通じて、母島を含む小笠原諸島には多様な人々が訪れるようになりました。しかし、具体的にどの外国船が母島に寄港したかの詳細な記録は限られており、主に父島への寄港が多かったとされています。

笠原諸島とタイ(旧称シャム)との間に、直接的な歴史的関係を示す記録は見当たりません。笠原諸島は、1593年に小笠原貞頼によって発見されたと伝えられ、その後、欧米人や太平洋諸島民が定住を開始しました。citeturn0search0方、タイは東南アジアの本土に位置し、独自の歴史と文化を築いてきました。理的な距離や歴史的背景から、両者の間に直接的な交流や関係はほとんどなかったと考えられます。

小笠原諸島とグアムは、地理的に太平洋のミクロネシア地域に位置し、歴史的にいくつかの関わりがあります。

19世紀の入植と交流

1830年、小笠原諸島に最初の定住者として、アメリカ人のナサニエル・セーボレー(Nathaniel Savory)らが欧米人や太平洋諸島出身者とともに入植しました。この入植者の中には、グアム出身者も含まれており、彼らは島の開拓や文化の形成に寄与しました。 (ritsumei.ac.jp)

アメリカ施政権下での関係

第二次世界大戦後、小笠原諸島はアメリカの施政権下に置かれました。この期間、島民の子弟は初等教育を島内で受けた後、中等教育のためにグアムの高校に進学することが一般的でした。彼らはグアムでの教育を通じて、アメリカ本土や他の太平洋地域との交流を深めました。 (ja.wikipedia.org)

経済的な結びつき

アメリカ施政権下において、小笠原諸島の島民は農産物や海産物を生産し、これらをグアムやサイパンへ輸出して現金収入を得ていました。具体的には、バナナ、オレンジ、パパイヤなどの果物や、トマト、ブロッコリー、大根などの野菜、さらに干物などが取引されていました。 (ja.wikipedia.org)

これらの歴史的背景から、小笠原諸島とグアムは教育や経済面での交流を通じて関係を築いてきました。特にアメリカ施政権下での結びつきが強く、文化や人々の交流が活発に行われていたことが伺えます。

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