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イラスト伝承 アーシューラーの物語 イスラーム史の真相解説 序文

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慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名によって

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日本語前文 訳者名前無し_result

イスラーム史の真相解説

イスラーム暦61年ムハッラム月アーシューラー※1の日(西暦680年10月10日)、聖預言者ムハンマド様(アッラーよ、彼と彼の御一門を祝福なさってください)の最愛の孫フサイン様(彼にサラーム)が、72人の友、親族と一緒に殉教しました。

※1.アーシューラーعاشوراとは10عشرの派生語で10日を意味する。
または語源がمعاشرةから成り立ち、イマーム様と愛を交わす日、イマーム・マフディー様の御手を握り締める日とも解釈されます。詳細はコチラ

この事件はどのように起こったのでしょうか。
それを見るためには、時代を遡って聖預言者様が生きていた時の状況を見る必要があります。

聖預言者様は生まれ故郷であるマッカでの布教活動において迫害を受け続け、西暦622年の有名なマディーナへの聖遷が起こります。その時マッカから一緒に移住したのは少数の信者たちだけでした。そのあと、たびたびマッカの人々とムスリムの人たちは戦います。その間、ムスリムの中で、最も勇敢で戦上手だったのが聖預言者様の最愛の娘ファーティマ様(彼女にサラーム)と結婚し、また彼のいとこであったアリー様(彼にサラーム)です。

聖預言者様がお亡くなりになる、わずか2年前にメッカは無血開城となり、その際メッカの人たちはムスリムになりました。そのマッカの人たちのリーダーだったのがアブー・スフィヤーンという人物で、ウマイヤ家の長です。そしてその息子がウマイヤ朝の初代ムアーウィアです。


お分かりいただけますでしょうか。
現代ではムスリムたちは聖預言者様が侮辱されたと受け取ると、絶対許せないとなる人たちが大勢います。ですが、聖預言者様が亡くなられた時には、メッカの人たちはほとんどがムスリムになってからたかだか2年しかたっていなかったのです。ムスリムたちが、その当時その信仰の強さから言って、皆同じレベルの信仰を持っていて、熱烈な信者だったと考えるのは事実に即していると言えないのではないでしょうか。

それで、聖預言者様が最後のハッジの帰り道に、アリー様を後継者として告知したときに、聖預言者様の前ではアリー様を祝福していた人たちが、聖預言者様が亡くなられた後は手のひらを返したように、彼の敵になったのです。

ムアーウィアをシリア総督にしたのは、第二代カリフ・ウマルです。それからこのムアーウィヤはシリアを自分色に染めていきます。それはアリー様が聖預言者様の娘婿である事実さえも覆い隠すものでした。

ウマイヤ家の一員でもあったウスマーンが暗殺された後、アリー様が第四代カリフに選ばれます。彼はシリアと戦うためにマディーナから今のイラクにあるクーファにその首都を移します。そして、シリアとの戦いの決着がつく前にハワーリジュの手によって暗殺され殉教します。その直後、アリー様の長男ハサン様が第五代カリフに選ばれますが、あろうことか彼を選んだ人たちがムアーウィヤにだまされ、彼にムアーウィアとのいわゆる和平を強要します。その時結んだ協定には、色々な規定が含まれますが、そのうちの一つはムアーウィヤが死んだあと、カリフの地位はハサン様のもので、もしもそのときハサン様が死んでいる場合は、フサイン様のものであるというものでした。

残念ながら、ムアーウィアは何一つ協定を守ろうとしませんでした。それでも彼は表立っては熱心なムスリムであるというふりをしていました。

ムアーウィヤは20年間アリー様の死後生存しました。ハサン様はアリー様の死後10年間イマーム(真の統治者・指導者)として生存しました。その後フサイン様は10年間ムアーウィアがカリフだったときに、イマームでした。

ムアーウィアはその死の前にハサン様との約束を破り自分の子供ヤズィードにカリフ位を譲ろうと画策し、それに表面上は成功してこの世を去りました。

このヤズィードは父と違って、熱心なムスリムのふりをすることがありませんでした。公然とイスラームで禁止されていることを行いました。

つまり歴史上はじめてイスラームの統治者として、イスラーム教徒らしくない人が権力を握ることになったのです。今現在、世界でアラブの王様としてイメージされている姿です。あの宮廷のイメージは本来のイスラームとはとても言えないものです。

それで、アリー様の時代に本当のイスラームというものを経験し、そのあとにムアーウィアから迫害を受けたクーファの人たちがフサイン様に繰り返し、何人も手紙を送り、「どうか、クーファに来て自分たちの指導者になってください」と懇願しました。その手紙の数は何千通にも及んだと伝えられています。

その時、フサイン様はマディーナに住んでいたのですが、マディーナの総督からの危険を感じ、まずマッカに行きました。また、クーファには自分の代理として、いとこであるムスリムという人を派遣することにしました。彼がクーファの人たちが本当に手紙に書いてきたとおりの人たちであり、フサイン様をもり立てる人たちであると報告したならば、フサイン様もクーファに行くという手筈でした。

ムスリムがクーファに着いてしばらくの間、クーファの人たちは彼を歓迎し、彼に忠誠を誓いました。それで、ムスリムはその事実をフサイン様に伝えます。

そこで危機感を覚えたヤズィード側の人たちがヤズィードにご注進し、当時バスラ総督でもあったウバイドッラー・ブン・ズィヤードがクーファ総督に任命されます。彼への恐怖により、クーファの人たちはパニックに陥り、次から次に寝返っていきます。そしてムスリムは殉教します。

フサイン様はクーファに向かって旅立ちます。その途中クーファの軍勢は彼の旅路を妨げ、また川に通じる道を閉じ、いわゆる兵糧攻めにします。

兵糧攻めで、一番何が悲惨でしょうか。それは飢えよりも渇きです。フサイン様一行は水を絶たれ、一行の中にいた乳飲み子まで恐ろしい渇きに苦しめられます。そしてついに彼は72名の友、親族とともに殉教します。そのあともその一行の生き残った女性、子供たちは捕虜として、シリアに連行されていきます。その中にはフセイン様の息子で、その時に重病で戦いに参加しなかった第4代イマーム・アリー、尊称ザイヌ・ル・アービディーン様、フサイン様の妹で、聖預言者様の孫ザイナブ様も含まれていました。この方がシリアで一人の老人に言われたことが泣けます。老人はこの捕虜がイスラームの敵だと思い込んでいたのです。聖預言者様の一族がイスラームの敵とはどういうことでしょうか。

それくらいシリアではウマイヤ家が伝えるイスラームが本当のイスラームであると信じられていたということでしょう。

この長年にわたる宣伝の効果を、この事件は打ち消していきます。そして、ヤズィードがしたことは、イスラームでは許されることではないという認識が広がっていき、反乱がおこっていきます。そして直接イマーム・フサインの殉教に手を下した人たちは全員つかまり、その報いを受けます。

そしてこの出来事はフサイン様を信じる人たちの間で、イスラームの信仰のあり方、また人間としての生き方を教えてくれる物語として代々受け継がれてきています。あれから1340年経ちますが、この記憶は決して風化することなく世界中の人たちの間で毎年言い伝えられ、今もなお彼の名前を聞くだけで涙があふれ出す人たちが大勢います。

私たちムスリムたちの信仰もまた、この事件とともに強められていると言っても過言ではありません。

次回↓
登場人物まとめ 予備知識編


キーワード:イスラム いすらむ クルアーン コーラン こーらん アシュラ あしゅら 言行録 カルバラーの悲劇 カルバラ かるばら 絵本 タースーアー タスア たすあ

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