【拳士の回生】7
怪物が現れ、騒ぎとなった一日の夜。タックルが魔札使いになり、ナットが彼に敗れた一連の顛末を労働者たちは知らない。それでも、平穏な夜を送ることは叶わなかった。絶え間なく響いた破滅の音と衝撃が、彼らの安眠を奪い去ったのだ。そして今、彼らの寝床のすぐ近くを死の気配がうろついている。
昼間の怪物がまた姿を現したのか? ナットはどこに行ったのか? 疑問が尽きることはないが、それでも彼らは扉を閉め、ひたすらに寝室を出ることなく、息を殺すことに努めた。すぐにナットがなんとかしてくれる。その際に邪魔になってはいけない。染み付いた習慣と、優れた上司の存在が、かろうじて彼らの正気を繋ぎ止めていた。
「タックル、お前どうしたんだよ!?」
だが、皆が皆そうではなかった。声の主は幼いプーリだ。この最下層で生まれ、生来のやんちゃのまま生きている彼は、まだ恐怖を直に感じたことがないのだろう。それ故に飛び出してしまったのだろう、そう判断したのは、偶々近くに住んでいた給仕のビュラであった。年少の彼を危機に晒すわけにはいかない。脊髄反射的にそう判断した彼女は、寝巻のまま管を飛び出し……そして見た。見てしまった。怪物の姿を。
その大きな体格と目にしているゴーグルから、それがタックルであることは疑いようがない。しかしながら、涎を垂らし、怪しげに両目を輝かせる様相は、つい昨日までのやんちゃ坊主とはまるで違っていた。まるでおとぎ話に出てくる吸血鬼のようであったが、話の中の怪物の方がまだ理知を感じさせたものである。今、眼前にいるタックルには、果たして人間的な知性が備わっているのか……。
「プーリィィ。こんな夜中に出歩いてちゃ、あぶねぇだろ。キヒ、イヒヒ……」
「あ……アンタこそ、こんな夜更けに出てちゃダメだろ。ナットの言いつけを忘れたのかい?」
ビュラはかろうじて言葉を絞り出した。外に出るなというのが、日中のナットの言いつけである。しかし、彼の名を出したせいだろうか。タックルは身を震わせ、怒りを露わにした。
「ナット……ナットの奴はもういねェだろうが! 俺が、俺が殺したんだ!」
咆哮と共に地面を構成するゴミが舞い上がり、雨のようにあたりに落ちていく。降り注いだ瓦礫が民家に突き刺さり、電灯を破壊する。タックルは今や、周囲に破壊をまき散らしていた。
「プーリ、伏せな!」
ビュラは少年の元へ駆け寄り、咄嗟に庇いうずくまった。落ちてくるゴミがいくつも背中に衝突し、傷みで呻き声が漏れる。
「タックル、タックルの奴が変なんだ。アイツ、昼間はまともだったのに」
「いい子だから静かにしな。何があったか知らないけど、アイツは普通じゃないよ。早く逃げなきゃ……」
逃げなければならない。どこに逃げる? 上層に繋がる管は平時には使えない。ナットが管理していたのだ。ならば、下層のゴミの荒地を逃げ回るのはどうか。体力がある限りは逃げ回れる筈だ。背に傷を負った自分はともかく、元気のあるプーリならどうか。
「テメェら。なんとか言えよ。信じられねぇのか? 俺がナットを倒したことが……だったら証拠を見せてやるよ」
タックルがなにかを翳した瞬間、ビュラの思考が遮られた。どこから現れたのか、周囲を無数の鼠が囲っていたのだ。鼠たちは、野生で見る個体とはまるで違う。人体を害しそうな鋭い牙に、彼のそれと同調しているような、赤く不気味に輝く眼。眼、眼、辺り一帯が赤い点と、蠢く無数のもので覆われていた。
「ヒッ…………」
保っていた気丈さも、背中で訴えてきた痛みもすべて吹き飛んだ。ビュラは助けに来た筈のプーリにしがみ付き、一方の少年も言葉を失っていた。
「気をつけろよ。こいつ等を制御するのは大変なんだ。気を抜くとなんでもかんでも喰らっちまう。シーブの奴も……俺が……俺が。俺が殺した。フハ、ハハハハハハッ!」
狂気の嬌声と共に無数の鼠が一斉に飛びかかった。想像を絶する苦痛と死の予感に、無力な二人は眼を閉じかけ……閉じ切る前に、それらの脅威すべてが吹き飛んでいく様子が映りこんだ。思わずその場で二度見した彼らだが、目の前にいた鼠たちはやはり消えていた。直後、追いついたとばかりに疾風がその場を通り、ちょうど彼らを避けるように抜けていった。
「な……え……?」
予想外だったのはタックルも同様だったようで、間抜けに口をぽかんと開けていた。そして訪れかけた暫しの静寂を、瓦礫を踏みしめる力強い足音が打ち消した。足音はどんどん近づいてくる。一歩近づくごとに、ゴミの地面が怯えるように僅か揺れる。そして、それはやってきた。
「制御が煩わしいようなので皆倒してやったぞ。礼は要らん」
自信満々にそう言ったのは、筋骨隆々とした大男であった。力強さを覚えるのは何も体格だけでなく、男の輪郭にも陽炎のように揺れる闘気が現われていた。まったくもって規格外、理解の埒外の男であったが、唯一顔の面影だけは見覚えがあった。そして、男は述べた。その面影の主であった男の名を。
「信じられんか。おれは、ヴァン・リユウだ」
ヴァン・リユウ。最近流れ着いた大柄な老人の名である。人並外れた膂力の持ち主で、時々その年齢を忘れかけるほどであったが、あくまで比喩の話である。まさか若返る筈もなかろうし、爆発せんとばかりの生命力は感じなかった。しかし、断言されてしまえば、そう信じざるをえないような力強さが今のリユウには宿っていた。
「リユウ、だと……? テメェ、まさか成ったのか……? 俺と同じ、魔札使いに」
「そうだ」
唯一、タックルだけはこうなった理由に心当たりがあったようで、彼の疑問に対し、リユウはやはり力強く肯定した。
「おれには最強にならねばならん理由ができた。なので今からおまえを倒す」
リユウはその場で跳躍し、一飛びでビュラの前に降り立った。彼女の背中の傷を見るや、彼らを絶妙な力加減で持ち上げると、タックルから距離を置くように管の傍へ降ろした。
「リユウ! ナットはどうなったの? タックルが言う通り、ナットは……」
「後で話してやる。ビュラの事を頼んだぞ」
この時、タックルには彼を無視してビュラ達を仕留める選択肢もあったが、そう思考する余裕はなかった。何しろ、今のリユウが放つ存在感は強烈で、頭の中で囁く狂気さえ一瞬かき消されるほどであったのだ。目の前の敵を始末しなければならない。思考がシンプルになっていく。
「俺を……俺を倒すと言ったな。できるのか? ナットを倒した俺に」
実際、タックルの中では先の一戦はほとんど無効試合であった。何しろ、シーブの介入がなければ明らかに負けていたのだ。言葉とは裏腹に、事実上の敗戦による屈辱が彼を突き動かしていた。八つ当たりする相手が欲しい。あの目障りな大男は、ちょうど相手にふさわしそうだ。
「できなければおれの首をくれてやる。決闘だ」
リユウの周囲に、半透明の力場が渦を巻き始める。タックルにも同じものができていた。両者の力場は勢いを増していき、とうとう、接触した。火花が散り、周囲のゴミを削り取ってなお両者の力場はその力を減じることなく、寧ろ激しさをより増していくようである。その力に導かれるように、五枚の魔札がそれぞれの魔札使いの元に浮かび上がる。そして。
「「衝突!!」」
両者の高らかな宣言と共に、決闘が始まった。
「おれの先行だ。《蒼雲の槍兵》を召喚する」
リユウの場に突如雲が渦巻き、それを裂くようにして細見の男が姿を現した。その表情は朧で、常人と明らかに異なる気配を漂わせている。男は手に持った長槍をくるりと一回転させ、穂先をタックルへと向けた。
「早速攻撃する。行け、《槍兵》よ!」
宣言と共に槍兵と呼ばれた男が突撃し、手に持つ長槍は流れるような動作でタックルに衝突した。槍は貫きはしていなかった。彼の纏う結界障壁……斥力の壁が刃を押し留めたのだ。壁である以上、耐久力には限度がある。今の一撃で、僅かに壁が傷ついた。この障壁こそが魔札使いを守る生命線であり、完全に破壊された時こそ決闘の敗北となる……魔札使いは、力と共にその知識を授かっている。
「痛ッ……テメェ。初っ端から攻撃してくるとは、良い魔札を引いたもんじゃねぇか」
「まだ、ほんの始まりだ。手番を終了する」
リユウやタックルが扱う魔札は、すべて魔札使いになった際に手に入れたものだ。己の性質や生まれ育った土地、そこに根付いた伝承などが魔性の力を得、魔札になるのだという。だが、泡沫世界の隅々には既に無数の魔札があり、このツリーラインズに限っても、膨大な数の魔札が眠っているのだという。魔札使いとなった雛鳥は、探索を続け多くの魔札を得、自らの山札を最適化していかなければならない。この戦いはそこに向かう為の序章に過ぎないのである……!
「俺の手番だ! 《溝川の騎士》を召喚するぜ」
地面を這って現れたのは、汚れた甲冑を着た大鼠であった。威圧的に立ち上がった背丈は、槍兵よりも大きい。
「こいつの能力で、俺は山札から同じ魔札を手札に加える。それじゃさっきの仕返しだァ。攻撃ィィ!」
大鼠が腕を振り上げ、直接リユウを襲う。まるで熊のような巨大な爪が、結界障壁に爪痕を残した。いくら障壁に守られているとはいえ、まったく無事というわけにはいられない。衝撃が襲い、服の繊維が僅か解けた。それでも、傷には至っていない。
「チッ、見た目通り丈夫な奴だな。手番終了だ!」
「いいだろう。おれの……手番!」
傷つきゆく障壁とは裏腹に、両者が放つ斥力は高まっていく。それは魔札について無知であるプーリやヴィラからしても、この戦いが激しさを増していく未来を予感させるに十分であった。あの優しかったナットが、影でここまで苛烈な世界に身を置いていたのか。
見物人は、もはや二人だけではなかった。今や最下層に住む皆が民家の管から恐る恐る顔を出し、この決闘の行方を見守っている。ナットの顛末を知らずとも、この戦いの行方を見守らねばならないと、そう本能的に感じ取っていたのだ。幾重の魔札と攻防が交差し、再びリユウに手番が巡ってくる……!