【拳士の回生】4
「凄いな。これも魔札というやつか」
騒動があった夜、リユウが外に出ると、見慣れぬ巨大建造物がそこにあった。傍らにはナットが立っており、指示を出している様子であったため、リユウはそのように推理した。そして実際、その予想は当たっていた。ナットが手にしていたのは、《機顔城ガイダン・ダ・イン》という魔札であった。
「なんだ、眠れなかったか? 鉄の雪崩に当たらねえよう気をつけろよ」
機顔城は凄まじい速度で鉄屑を吐き出していた。リユウが空けた穴の底は既に塞がっており、夜が明ける頃にはすべて元通りになるであろう勢いだ。
「ここが埋もれちまっても当然良くないが、塵の噴出孔は塞いでおかなきゃ危ねぇんだ。何が出てくるか分からねぇからな」
「今日みたいな奴が頻繁に出てきたら、確かに危険だな」
リユウは拳を握った。昼間に衝突した怪物の感触を確かめていたのだ。おそらく、彼の背後に聳える機顔城を殴りつけても、同じ感触が帰ってくるだろう。彼は、己の拳が真にあらゆるものを砕けるとは信じていなかったが、それでもほとんどの物を貫く自信は持っていたのだ。先刻の件は、彼を無力感に苛むに十分な出来事であった。
「……興味あるか? 魔札使い」
そんなリユウの様子を察してか、ナットが言った。リユウはその問いに対し、正直に口を開いた。
「これ以上力を得る理由がおれにはない。かつて拳を振るったのは、そこに打破すべき敵がいたからだ。共に戦った仲間も死んでしまったし、守っていたおれの故郷も……恐らくなくなった。最早おれに戦う理由はない。おれにあるのは、生き残ったことへの疑問だけだ」
「そういや、最初に連れてきた時そんなことを呟いてたな」
プーリが発見した直後、満身創痍だったリユウが呟いていたのを、ナットも確かに記憶していた。当然リユウにその記憶はなかったが。
「そっか…………なくなっちまったのか、故郷」
「………………戦いの後、生き残った人間は僅かだった。だが、おれたちは力を合わせて乗り切ろうとしたんだ。実際、上手くいきかけていた。あの日まで生きていたんだ」
リユウは夜空を見た。塵の山から見える空には、遥か上層まで伸びる複数の管があった。だが、リユウはその先を見据えていた。とてつもなく巨大なものが、その先にあったかのように。ゆっくりと、リユウは語り始めた。己の世界の、滅びの物語を。
◆ ◆ ◆
皇帝を倒し、戎の神を倒した後、生きていたのはおれと、地方に散った僅かな子供たちだけだった。おれたちは残った資材を持ち寄り、見様見真似で家らしい家を頑張って作った。何しろ戦乱の余波でほとんどの家が壊れていたのだ。雨風を防げる程度で、とても見た目の優れたものではなかったが、その一軒のボロ屋が町のはじまりとなった。
崩壊した城の倉庫には、食料はほとんど残されていなかった。あったのは、無数の本と役に立たない美術品だけ。それでも、文字の読めるやつがいたおかげで、畑を作り、やがて食料を作ることができるようになった。おれはてんで下手だったが、子供たちの呑み込みが早く、そうして生活の基盤が安定してきた。
野菜を取ることができないので、おれはもっぱら狩りを行うことになった。泉に住む怪魚を獲ったり、峡谷を飛ぶ怪鳥と戦ったり……色々と冒険をした。中でも驚いたのは、洞窟などに野生化した蛮族が住み着いていたことだった。国の他にも人々の営みがあることを知った。とはいえ彼らは敵対的で、言葉を介することはできなかったので、彼らとの交流は拳で行うこととなった。中には打ち解け合い、話さずとも酒を酌み交わせるような奴らもいた。
そうこうしているうちに、何十年と時が過ぎた。子供だった奴が大人となり、また子を成し、またそいつが大人になり……おれはずっと見守っていた。子を成せないおれにとっては、あいつらが己の子のような存在だったかもしれん。楽なことばかりではなかったが、それでもおれたちは懸命に生きていた。これからも、その営みは続くだろうと、そう考えていた。
ある日、壁が現れた。
白い壁……おれにはそう見えたが、それがなんだったのかは、本当のところはよくわからない。なにしろ、天を衝くほどに巨大で、果てしなく続いていたからだ。そして、その壁は迫ってきていた。
おれは山菜取りに山にいて、峰からその光景を目の当たりにした。泉が呑み込まれ、山が崩れ落ち、山賊の隠れ家が地面ごと割れ、砕け消えていった。壁は大地の深くまで刺さっていたようで、あらゆるものを破壊しながら、こちら側に接近していた。そして当然、進路上にはおれの町があった。
すぐさま山を下り、速やかに皆を避難させた。どこに逃げれば助かるのか、具体的なことは分からなかった……とにかく必死だった。おれは反対に壁に向かって走り、食い止めようとした。渾身の力を込め、壁に拳を放った。何度も、何度も、何度も殴りつけた。だが、無駄だった。
大軍を退けた一撃が、神を滅ぼした一撃が、その壁には通用しなかった。傷がつくどころか、減速することも、ましてや後退することもなかった。おれが傷つくことはなかったが、壁に押し出され後退し続け、抵抗も虚しく、やがて町への侵入を許してしまった……。
皆で作った家が、畑が、町だったものが消えていく。おれはせめてもの抵抗で、壁にしがみついた。この命を賭してでも、せめて少しでも破壊を遅らせることができればと。だが、斥力のようなもので壁から弾かれ、結局止めることはできなかった。おれは無力だった。
見上げた壁は果てしなく高く、まるで宙の上から伸びているようだった。意外にも、周りは静かだった。音の一つも立てず、あらゆるものが消えていった。まるで、初めから何もなかったように。気づけば、壁が目の前に来ていた。
…………そこで、おれの意識は途絶えた。
◆ ◆ ◆
「だが、知っての通りおれは生きていた。なぜかここに流れ着き、九死に一生を得た。町の皆は、ここに来れなかったのにな……」
リユウは拳を握りしめた。だが、握力の音は鉄屑の落下音に虚しくかき消えた。
「すまんな、辛気臭い話になってしまった。そろそろ宿舎に戻るか――」
「……………………まさか、まさかだろ。待ってくれ、リユウ」
呼び止められ、ナットの方へ振り向き……そこでリユウは初めて、彼の驚愕の表情を見た。信じられない話に驚いているという様子ではなかった。むしろ、それは……。
「……知っているのか? おれの故郷を滅ぼした壁のことを」
リユウは恐る恐る尋ねた。
「詳しく、知ってるわけじゃねぇ。だが、この目で確かに見た。一つの世界が滅びる瞬間を。それを契機に、俺たちはツリーを護る決意を固めたんだ」
そこでナットは言葉を切り、辺りを見渡した。まるで、話題に上げている当人が近くで見ているのではないかと警戒するような、そういう様子であった。やがて、口を開く。
「いいか、お前の故郷に現れた壁、その正体は――」
「助けてくれぇ!」
ナットの言葉を遮るように、救助を求める声が響いた。リユウ達が振り向くと、声の主はすぐに現れた。シーブとボロックの二人である。
「てめぇら、こんな時間に何起きてんだ! …………タックルの奴はどうした?」
「アイツ突然変わっちまったんだよぉ! 俺たち、一斉になろうって言ったのニブッ」
泣き喚くボロックの腹部から、突然刃が生えた。刃は速やかに引き抜かれ、ボロックの身体から前後に血が迸った。一瞬の出来事である。リユウ達は刃の主を確かめる。それは、鎧を着て直立する大型の鼠であった。
「魔札生物だ! 下がれ」
ナットがリユウ達を下げさせるより早く、鼠は歯をならしながら後退し、一目散に逃げていく。まるで役目は果たしたとばかりの、意図を持った撤退である。
「まさか……タックルの野郎、祭壇に行ったのか!?」
「す、すまねぇ……! 俺たち、どうしても力が欲しくて……」
「バカ野郎! とにかく追うぞ。てめぇら、俺から離れるなよ」
シーブとリユウを率いて、ナットは鼠を追跡し始めた。他に魔札生物が潜伏し、彼らを傷つけることを恐れての判断であった。
「野郎……明らかに誘ってやがるな」
ナットの十数歩先を走る鼠は、走るペースを変えながら、常に一定の距離を保っていた。まるで視認されることを狙っているように。
「ナット、祭壇とはなんだ? 一度も聞いたことがなかったが」
走りながら、リユウが尋ねた。
「儀式の祭壇だよ。普段は俺が立ち入りを禁じてるんだ。魔札を携えた者に儀式を行う、そういう場所だ。どこで魔札を入手しやがったかは分からねぇが、要するに、今のタックルは……」
いつの間にか、前方を走る鼠が消えていた。代わりに管の入り口がある。その扉は何重かの鎖で閉ざされていたようだが、無理やりこじ開けられたように壊されていた。そして、ナットが勢いよく扉を開け放つと、その先にタックルがいた。無残に壊された、祭壇と思しき構造物が、男の背後に散らばっている。
「ナット……俺と魔札決闘しろ」
タックルの双眸は怪しく燃えており、右手にはそれ以上に禍々しい気を放つ魔札の束が握られていた。魔札使い……この男は紛れもなくその存在に変貌したのだと、リユウは直感した。