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羊の奇祭・後半
■ ■ ■
(前半のあらすじ)
花の世界サーティアに訪れた、渡りの魔札使いヴァン・リユウ。そこで開催されていた春羊祭は、実は邪神を呼び出す為の罠だった……!このままではリユウ含む魔札使い達が生贄に捧げられてしまう。リユウは邪神との決闘に踏み切るのだった!
邪神――贄の神、オヴィス=スタロスが繰り出す生贄コンボの布陣に、リユウは劣勢を強いられる。その上、オヴィス=スタロスが繰り出す新たな魔札がリユウを襲うのだった……。
■ ■ ■
(((念には念を入れ……この魔札を唱える)))
贄の神が新たな魔札を使用する。羊1体を糧にして放たれた呪文が、長く伸びた羊毛が、リユウの脳天を突き刺す。
「ぬ……!」
羊毛の刺突は物理的な攻撃ではなく、リユウの身を、結界力場を害するものではなかった。代わりに、その攻撃はリユウの精神を蝕んだ。
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(((Baa、Baa、Baa……この呪文は貴様の山札を破壊する……)))
リユウが持つ全ての魔札が贄の神の前に公開された。ほぼ全てが『拳』の呪文である。それらの呪文は、贄の神の場の『否定の羊疑者』によって無力化されている。『羊疑者』の防御を崩す為の、生物の魔札は――。
(((……貴様、山札に生物を入れておらぬな?)))
オヴィス=スタロスは哄笑した。ヴァン・リユウという男の戦術は、己にとって相性が良すぎる相手だったからだ。あれだけ生意気な口を咆えていた男が、これほどまでに格好の餌であったとは。贄の神は笑いをこらえるのに苦労した。
(そ、そんな……)
ノナとかいう女魔札使いの思念が浮かび上がる。身体の自由は許していないが、リユウ以外の魔札使い達は確かにここに存在している。この決闘処刑を目の当たりにし、彼らは口々に呪いと絶望の思念を漏らしていた。恐怖を何よりの甘味と感じるオヴィス=スタロスにとって、彼らの悲鳴はこの上なく好ましいものであった。
(((この魔札を追放する。貴様の挽回の手は潰えたであろう)))
贄の神は、リユウの山札から除去呪文を1種選び、取り除いた。生物呪文とはまた違い、直接的な破壊によって『羊疑者』を倒しうる一枚だった。先ほど見た限り、他にこの布陣を打開する術はないように思えた。ああ、この男は如何なる絶望の果実を実らすのだろうか。想像しただけで、オヴィス=スタロスの邪悪な口からは涎が零れ落ちた。
「……よかろう」
だが。贄の神の予想に反し、ヴァン・リユウの反応は淡々としたものだった。
(((……貴様、分かっておるのか?反撃の芽を摘まれた貴様に、もはや打つ手は残されておらぬのだぞ)))
「必勝を確信したならば来るがいい」
ヴァン・リユウは構えた。決闘を仕掛けてきたときと同じように。恐怖という感情を持っていないのか?それとも、状況を理解できぬ阿呆か。
(((よかろう……そうであればこのまま喰ろうてやろう)))
贄の神の戦闘宣言と共に、邪悪な羊たちが臨戦態勢を取る。存外に味気ない余興であったが、それでも観戦する弱者共を震え上がらせる程度の調味料にはなった。まずは無味なリユウを食し、魔札使いどもの恐怖で口直しをしよう。そう、贄の神が決めた、その時であった。
まず、『羊疑者』が破裂した。一瞬で距離を詰めた、リユウの拳によって。
(((な――?)))
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贄の神は驚愕した。それは先ほど除外したばかりの魔札だったからだ。
(((馬鹿な!?魔札をどう引き戻したというのだ)))
「手札に持っていただけだ。おまえの魔札は、おれの手札には干渉できなかったようだな」
リユウは続けて、更なる魔札を使用する。贄の神の残る3枚の手札の中に、これに対応できる魔札はない。リユウの拳に、巨大な炎が宿る。
「では遠慮なく、おまえの羊どもを焼かせてもらう」
(((ーーッ!)))
リユウが跳んだ。拳の炎を推力にして、高く、跳んだ。
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「――背炎拳!」
まるで鳳凰の羽ばたきであった。炎が膨れ上がり、濁流や雪崩のように押し寄せ、一撫で贄の神率いる邪悪な羊の群れを焼き滅ぼした。強烈な勢いの炎が、贄の神自身の結界障壁をも焦がす。
(((BaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaAAAAAAAAAHHH!!)
この決闘における、リユウ初めての反撃であった。あえて追い込まれ、タイミングを見計らっての一撃。思わぬ反撃。熱の痛み。これまでに得た回復量によって致命傷には至らないが、贄の神にとって、それは幾万の年を経て久方ぶりに経験した痛みであった。
(((貴様……)))
贄の神がリユウを凝視する。常人であれば、一睨みで精神を崩壊せしめるほどの邪悪な瞳である。しかしリユウは、拮抗するほどの眼力で以って対抗した。邪神の凝視を、真っ向から睨み返してきた。
(((……火にくべたとて、この世界から我が愛羊が滅ぶことはない)))
贄の神が新たな魔札を使用する。羊毛が海のように広がり、新たに歪んだ羊たちが産み落とされる。
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(((我がいる限り、羊たちは何度も蘇る。そして新たな羊の糧となるのだ)))
贄の神が魔札を高らかにかざす。すると、産み落とされた羊たちが連結し、浮力を得て天を舞った。ムカデのように連結した羊たちが、一体の龍になった。
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(((貴様の結界障壁を壊すには十分な攻撃力を得た。これで貴様は――)))
「おまえの戦闘は既に終了している」
リユウの指摘は正しかった。羊龍を召喚できた時点で既に戦闘フェイズが終わっているのだ。再攻撃には、次の手番を待たなければならない。
(((……手番、終了)))
贄の神は屈辱に全身の毛を震わした。だが、羊龍は十分な羊を喰らっており、必殺のカードであると共に鉄壁の防御でもある。更に、度重なる回復を経て、先のダメージを踏まえても十分な耐久力が贄の神の結界障壁には備わっていた。次の手番中に負けることはまずない。形勢は贄の神に傾いている。
(リユウ……)
ノナの不安げな思念が空間を過ぎる。思念を読み取るような能力でも持たぬ限り、リユウがこれを読み取ることはできぬであろう。しかし、声援は最初から不要であった。傲岸不遜にも、このヴァン・リユウという男は、最初から一人で、贄の神を倒しにきたのだから。
「俺の手番だな」
リユウが山札に手を伸ばす。魔札使いが新たな札を引く時、自身の手を用いる必要は本来ない。魔札は常に対空しており、自動的に補充されるからだ。それでも、ここぞという時、自らの手で魔札を引く魔札使いは決して少なくない。リユウもまた、そうした魔札使いの一人だった。
右腕に力が宿る。必勝への希望を、未来を託して――。
「引札」
リユウは魔札を引いた。凄まじい旋風が暗黒の空間を揺らした。贄の神にとって、それは好ましくない感触であった。
(((この瞬間、我は新たな魔札を使用する)))
その直後、贄の神が魔札を切った。最後の手札であった。
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(((貴様の戦術はあくまで魔札による攻撃である。故に、この魔札によって、貴様の反撃の芽は今度こそ潰えるのだ!)))
贄の神自身の羊毛が増長し、巨大なシェルターのように自身を、そして羊龍を覆い始める。だが、既にリユウは跳んでいた。そして引いたばかりの魔札を使用し、拳に稲妻を宿したのだ。
羊毛の盾に覆われた贄の神と、跳躍したリユウの目線が合った。今度こそ、贄の神はリユウの目の中に、恐ろしいほどの勝利への執着を見た。
「雷震拳!」
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羊塞化が完遂される直前、無防備な羊龍に、リユウの雷の拳が命中した。倒すほどには至らなかったが、強烈な衝撃により羊龍は浮力を維持できなくなり、地に伏した。この手番中、主たる贄の神を護ることができなくなった。
成果に満足し、リユウは着地した。一方、贄の神の羊塞化もまた完成した。リユウの得意とする魔札効果によるダメージは、この手番中与えることができなくなった。贄の神が笑った。
(((如何に我が羊龍を無力化したとて、再び手番が来れば力を取り戻す。貴様の足掻きは、しょせん無駄であったな)))
「果たして、どうかな」
贄の神は訝しんだ。この手番中、如何なる手段でリユウは攻撃するつもりなのだろうか。先の「摘発」によって、魔札生物を山札に入れていないことは分かっている。羊たちのような、魔札によって生成させる手段がないのも分かっている。如何なる手段で生物を呼び出すというのか――。
(((まさか)))
贄の神は一つの選択肢に思い至った。魔札使いに"成った"とき、他のルールと共に理解した。贄の神にも使用する権利のある魔札。すべての魔札使いが固有する一枚の魔札。
(((化身の召喚……!!)))
贄の神の疑問に応えるかのように、リユウは自らの胸を叩いた。化身の魔札。最強の一手であると同時に、万が一破壊されれば、どれだけ優勢を築いていようが敗北となる諸刃の剣。リユウは一切の躊躇なく、その魔札を使用した。
「化身降臨」
叫びと共に、紅蓮の炎が生じ、リユウの全身を覆った。リユウ自身が一体の化身となった。
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(((莫迦な……!)))
贄の神は驚愕した。化身の召喚でも、リユウ自身が化身になった事にでもない。紅蓮拳皇が放つ圧倒的な存在圧に自身が圧倒された事実に対してである。それは例えるならば、一個の矮小な人間が、強大な神格の一柱と対面した際の感覚に似ている。ヴァン・リユウの強大さは、最早並の神格を超越していた。
(((莫迦な。貴様は一体、何者だ?)))
改めて贄の神は問うた。
「言ったはずだ。おれはヴァン・リユウ。最強になる男だ」
紅蓮の化身が応えた。自身の強大さに対して何の説明のない回答。ただ一つ、”最強になる”という目標が、力強さを増していた。強者を打倒し、魔物を打倒し、神さえも打倒できるのならば。その拳は果たして、如何なる高みを見据えているというのか。
贄の神は、はじめてヴァン・リユウという男を恐怖した。
(((やめろ)))
リユウが一歩踏み出した。力強い一歩である。それだけで暗黒の空間が震え、贄の神の羊毛が逆立つ。贄の神にとって恐怖は、久しく取り出した感情であった。
(((やめろ!)))
贄の神の絶叫が響く。当然、リユウには通じなかった。圧倒的な力を人の身に宿した紅蓮の化身が、再び飛翔した。今度は高らかに、贄の神よりも高く。そして、自身から生じた炎を推力に、贄の神目掛け、螺旋状に降下する。一瞬。贄の神の眼は、リユウの拳に紅の龍を見た。
回復によって硬度を増した結界防壁が、贄の神の身体ごと貫かれた。攻撃の余波が、空間にさえも亀裂を生じさせた。やがて、轟いていた絶叫が、自身の悲鳴である贄の神を彼は自覚した。程なく、大きな羊毛で包まれた巨体が、支えを失ったようにぐらつき、振動と共に倒れた。
贄の神は敗れた。神として生じ、賢しく永らえてきた彼の生涯にとって、はじめての敗北であった。
■ ■ ■
「Baa……」
贄の神が苦しげに呻いた。先の一撃による亀裂な大きく、空間は今にも崩れようとしている。贄の神の本体も、敗北により相当に消耗していた。一刻も早く、誰かを食し回復せねばならなかった。
しかし、贄の神の眼前にリユウが立った。決闘が終わったことで紅蓮の炎は鎮まっているが、その双眸は未だ勝利への渇望を湛えていた。贄の神は既に、リユウを尋常の存在とは見なしていなかった。恐るべき存在であった。
(((このまま、この贄の神を殺すか……?)))
贄の神は問いながら、それが想像以上に弱々しい声である事を自覚した。
「否。おまえが死にたいのでなければ、これ以上殴るつもりはない」
だが、とリユウは付け加えた。
「この場で貴様が誰かを喰らうのは許さん。貴様自身の信徒でもだ。大人しく立ち去るがいい」
リユウは力強く言った。事前に詳細な取り決めはしていなかったが、決闘の法則は心理的に作用する。勝者の決定に、敗者は従わねばならない。
(((……ならば、貴様の言う通りにしよう)))
贄の神にもまた、決闘の法則は適用される。魔札使いに成った以上、逃れることはできない。贄の神は傷を抑えながら、よろよろと指を動かし、空間に孔を開いた。孔の先には無数の泡が煌めていた。贄の神は、逃げ出すようにするりと孔に滑っていった。
……こうして、主を失った世界は、崩壊の速度を速めていった。
「オヴィス=スタロスを逃がして良かったのかな」
空間上にぽつりと、男性の声が響いた。贄の神が消えたことで、発言権が戻ったのだ。
「あの傷では大した力は残っていないだろう。それに、再び悪さをするのならば、おれが再び倒すまで」
問いかけの主――アルノードに対し、リユウが応えた。
「あの、ここから私たちどうなるの?」
次に発言したのはノナだった。発言はできるが、その体は未だに不明瞭なままだった。
「ここは自我が独立して存在できる小さな異界なんだ。君たちの身体はサースィアに残ったまま。この異界が自然消滅すれば、ちゃんと元の身体に戻れるよ」
ノナの質問に、アルノードが応えた。
「良かった……取り残されたりはしないのね」
ノナは安堵の声を漏らした。生来の彼女であれば追加で質問を投げかけたかもしれないが、あの悪魔的神と、リユウの死闘の顛末を見届けた事で、彼女の精神は心底参っていた。
「アルノードよ! この大馬鹿者。オヴィス=スタロスに反目するとは何たる――」
「ハイハイ。帰ったらちゃんと説明しますよ」
コロニーの長の怒声を、アルノードは聞き流した。他の民たちも口々にアルノードやリユウを罵倒したが、肉体の自由が戻らない現状で、彼らが出来るのは文句を言うことだけであった。
「……ふ」
リユウは笑みを浮かべ、そして倒れた。激戦を終えたことで、強烈な眠気に襲われたのだ。流石のリユウも、睡魔にまでは敵わない。消えていく空間を見、騒がしい喧騒を耳にしながら、リユウは満足げな眠りについた。
■ ■ ■
(((莫迦め! 莫迦め! あの世界から離れれば、いくらでも食する人間はおるわ)))
泡間の無数の泡を抜け、贄の神が無造作に飛び出した先は、タレットつきの複数の城に囲まれた世界だった。広大な城下町のようで、大勢の人々が行き交っている。
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贄の神の巨体が大雲のように街を覆うと、道交う人々が異形の存在に気付いたようで、悲鳴を上げながら散り散りに逃げ出した。当然人口密集地のため、地上はパニックの嵐である。警備と思われる白い騎士たちが逃げ惑う人々を誘導しているが、突然の強襲に対応しきれていない様子であった。
傷ついた贄の神は、空中からその光景を眺め、愉悦に浸っていた。ヴァン・リユウから得られなかった恐怖、贄の神に向けられる恐れが滋養となり、微弱ながら肉体を癒していく。だが、このまま恐怖をまき散らし続けるだけでは、完治には遠大な時間がかかる。直接捕食しなければ。
贄の神が巨大な手を地上に伸ばす。あまりに大きいため、無造作に掴むだけでも何十、何百と一度に掴むことができよう。サースィアの小さなコロニーと異なり、ここには巨大な群れがいる。試しに、この街の人間すべてを喰らってやるか――そうした贄の神の目論見はすぐに破られた。何らかの力によって手が弾かれたのだ。
(((……!)))
目をこらすと、黒い全身鎧の騎士が一人立っていた。周囲に増援はいない。騎士一人である。騎士は黒い剣を構え、高らかに言った。
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「化物め! メンセマト城に直接攻め込んでくるとはな。だが貴様の侵攻をこの"黒剣"のニグレオスが許すと思ったか。我と決闘せよ!」
(((Baa……)))
騎士の黒剣が変形し、中から魔札が展開された。彼も魔札使いである。一方の贄の神は決闘を受けるかどうか思案した。このまま彼を無視して人々を喰らうことは難しくはない。だが、先のヴァン・リユウに比べれば、眼前の騎士はあくまで常人の域を超えてはいないように思えた。先に騎士の精神を折り、喰らってもよいのではないか。
(((良かろう……このオヴィス=スタロスの糧としてくれよう)))
贄の神が魔札を展開すると、周りに薄い結界障壁が生じた。リユウ戦の敗北を経て、障壁は回復しきってはいない。敗北直後の決闘では、あらゆる面での弱体化を余儀なくされるのだ。魔札使いに成った時点で贄の神はこの知識も得てはいたが、強大な神である自身にとって、多大なリスクにはなりえないだろう。そう思っていたのだ。この時点では。
(((衝突)))「衝突!」
そうして、贄の神にとってこの日二度目の決闘が始まった。
形勢が傾くのには、さほど時間はかからなかった。数刻後、贄の神が呼び出した羊たちは無惨に刈り取られ、ニグレオスと名乗った騎士の前には屈強な黒騎士たちが立ち並んでいた。
(((グ……馬鹿な!)))
贄の神が強大な大羊を召喚するも、黒騎士達は見事な連携によってこれを撃退する。そして、残る騎士たちの攻撃が、贄の神の薄氷のように薄い結界障壁を剥がしていく。防戦一方であった。
(((何故だ……何故だ!?)))
遥か古の時代、まだ神秘と魔法が生きていた神代において、贄の神は絶対の強者であり、眼前のニグレオスなどは、取るに足らない弱者の一匹であった。決して、人が神に優位に立つことなどはなかったのだ。だが、こと魔札の世界において、贄の神は入口に立ったばかりであり、ニグレオスは熟練の戦士である。強者が弱者を蹂躙する構図は変わらず、ただ前提の法則だけが変わっていた。
贄の神、オヴィス=スタロスは、神格の知性によって、受け入れ難い仮説を無自覚に感じつつあった。戦いに精通すれば、人が神さえも屠ることができる。魔札の決闘とは即ち、人が神を討つために構築されたものではないのか? 真偽のほどはともかく、少なくとも、今この場において、贄の神は討たれる側であった。
永き休眠の間に、いつ、魔札が生じたのか。目覚めた地に恵まれただけで、世界は既に変貌を遂げていた。本来は弱者として、死に物狂いで戦いに臨まなければ、決闘に勝てる望みなどはなかった。リユウのように。ニグレオスのように。未だ自身を強者と誤認し、魔札決闘を遊戯として認識した時点で、既に敗北は決まっていたのだ。
「BAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAHH!!」
遂に贄の神の結界障壁が破られた。ニグレオスが呼び出した騎士たちの攻撃が、次々と古き神に命中する。矢が突き刺さり、槍が羊毛を朱に染める。
「異界の化物よ。我が黒剣で消え失せよ」
そして。ニグレオスが黒剣を振り、自身の首に当たった感触を最後に、オヴィス=スタロスはそこで途絶えた。
忘れられた神々の一柱、贄の神は死んだ。
■ ■ ■
ヴァン・リユウが目を覚ますと、そこには顔中痣だらけになったアルノードが座っていた。どうやら、彼の家で眠っていたらしい。
「やあ、お目覚めかい」
「その傷はどうした?」
「コロニーの連中にやられたのさ。神様に逆らった罰だって。結局、サースィアを離れるって条件で、なんとか命だけは繋いだよ」
もともとアルノードは放浪者寄りの人物で、サースィアのコロニーとは距離を置いていた。今回贄の神討伐をリユウに持ち掛けたのも、別の世界で懇意にしていた魔札使いが犠牲になった事で、これ以上被害を起こすまいとしたのが理由であった。
「今回誘われた魔札使いたちは、とっくに自分たちの世界に戻ったよ。こんなところいられるか! ってね」
「……そうか」
「あっ、ノナって子が君を結構気に入ったみたいでね。これ、君にだって」
リユウは1枚の魔札を受け取る。そこには、ジニキス書界への行き先を記したログカードであった。通常、魔札使いが泡間を通って別の世界に行く際は先の世界の事が分からないが、こういう魔札を集めれば、任意の、安全な世界に行くことができる。ログカードを収集する魔札使いも少なくない。
「ジニキスか。座学しに行く気にはなれないが」
「そう言うなよ。彼女に会いにいくだけでもいいんじゃないか?」
荷物を纏めながら、アルノードはしゃべり続けた。
「それにしても、本当にオヴィス=スタロスを倒しちゃうなんてね。いや、君が強いことは前から知ってたんだよ。それでもさ」
「……実は、神を名乗る奴を倒したことは前にもある」
「本当に!?」
アルノードは手に持っていた本を落とし、慌てて拾った。リユウは苦笑して続けた。
「相当昔の話だ。おそらく、魔札ができるよりもずっと……」
「ぜひ詳しく聞きたいね」
「何から話したらいいか。長くなるぞ」
「それはちょっと困ったな。明日にはここを経たなきゃいけないからなぁ」
「それなら、また別の機会にしよう」
リユウはベットから起きあがり、本棚を持ち上げた。流石に棚ごと持っていく気がアルノードにないことを知ると、渋々本をまとめだした。
アルノードの家、コロニーより外れた場所。前までは無数にいた羊たちが、その姿を減じていた。
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一匹の羊が群れからはぐれ、匂いにつられて花畑へと近づく。すると、途端に花が大きくなり、羊をまるごと包んでしまった。間もなく花は元の大きさに縮小した。辺りに舞った羊毛を遺して、羊だけが消え去った。
主を失ったことで、サースィアの生態系が早くも変わろうとしていた。花と羊の世界、サースィア。このうち、羊を保護していた贄の神が不在となり、間もなくここは花の世界へと変わるだろう。コロニー内の者たちが事態を知るのは、きっと先の事だ。
コロニーの広間では、花の冠をつけた子供たちが、無邪気に踊りを練習していた。手足を揺れるように動かし、くるくると回る。端で見守る、一連の騒動を知った大人たちの不安など露にも知らず、子供たちは遊び続けた。そして手を天にかざし、今は亡くなったとも知らぬ、神の名を呼んだ。
【羊の奇祭】 終わり
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