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Sisterhoodについて

【注意】本記事には、性暴力についての記述や状況説明が含まれます。フラッシュバックなどの懸念がある方はご注意ください。


年を重ねて、ようやく人に話せることがある。あるいは、年を重ねるなかで、ようやく人に説明するだけの語彙を獲得したと言えるかもしれない。

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今年の六月に初の翻訳書『子どもを迎えるまでの物語 生殖、不妊治療、親になる選択』をクラウドファンディングを通じて出版させていただいた。

この本は、産む、産まない、産むならばいつ、何人、どのような手段で産むかを選ぶ権利を指すリプロダクティブ・ヘルス/ライツについてのノンフィクションだ。

体外受精治療を経て出産した著者の体験が基軸ではあるが、産まない選択、子どもを迎えない選択をした人々の話も出てくる。

それを読み、訳している中で、かつてお付き合いしていた人のことを思い出した。20代当時の私は、NYで音楽活動をしながら働いていて、まだキャリアパスのキの字も考える余裕がないくらい、本当に日々を生き延びることで精一杯であった。一方、当時の恋人は、年上で、ある程度キャリアも落ち着いていて、比較的裕福な暮らしをしていた。

しかし、私はしばらくすると日本に永久帰国し、遠距離恋愛を試みるもその後交際をやめてしまった。相手は一体何が不満なのかと訝り、その後も沢山連絡をくれたけれど、当時は相手へのもやもやの全てを言語することはできなく、私から連絡することはもうなかった。

この二年ほどの間、リプロダクティブ・ヘルス/ライツにまつわるナラティブをたくさん読んでいて、ようやく十年近く前の自分の辛さの名前を知ることになった。

わたしは、本当に本当に嫌だったのだ。たとえ好きなパートナーでも自分のリプロダクティブ・ライツをないがしろにされることが。自分の目先の欲望で避妊をしてくれない相手が。そしてその元パートナーが、彼の過去の交際相手には、中絶をさせた女性がいたことを、反省する様子もあまりなく軽い感じで話していたことも。避妊をして欲しいといっても、「どうせうちら結婚するんだからいいじゃん」と言い、(そりゃ当時はあってないようなものだったけれど)わたしのキャリアパスのことや、産みたいかもしれないタイミングは全く尊重してくれないという事実に。

今だったらいくらでも、冷静に言葉で説明できるんだけどな。

でも、リプロダクティブ・ヘルス/ライツのやフェミニズムに関わるさまざまな語彙を得た今となっては、そういう価値観を持つ方と一緒になることはきっとないだろう。むしろ今は、打ち解けた話を同世代の男性としていても、無意識に性差別的な発言が相手からでてくることに、とても身構えてしまうし、事実ちょっとがっかりすることも往々にしてある。

でも、目の前の仲良くなりたかった男性が、たとえ自分には優しくても、別の女性を軽んじたり、バイアスのかかった視点で相手を裁いていたら、今の私はもう、顔も知らないその別の女性に対しての連帯、Sisterhood(シスターフッド)をより強く感じてしまうし、黙れないし、黙らないでいたいなと思う。目の前の相手に好かれるよりも、胸を張れる自分を好きでいたい。


だからこそ、痴漢など性暴力の標的になりやすい年代の女の子や子どもたちに「気をつけて」って言葉をかけてる身近な人がいたら、「被害者になりうる弱者側が気をつけ続けなきゃいけない世の中がおかしいよね。性犯罪やヘイトクライムがまず起きないために何ができるか考えてみない?」って言いたい。

「ジェンダー平等とかいうけどさ、性差別なんかもうなくない?まわりには活躍してる女性ばっかだよ。クオータ制とか逆差別じゃない?」みたいな意見にも、「恵まれているあなたの身の回りでは、すでに平等が実現しはじめているかもしれないけど、ちょっともっと広い世の中のデータちゃんと見ませんか」って言って日本に住む女性の雇用形態と年収の平均を見せたい。身の回りの実例(サンプル)が偏ってるかもしれないこと、それだけをみて、実在する差別や不平等をないことにするのはやめませんか、って言える自分でいたい。

Solidarityは連帯を指すことばであるが、今の私は女性への連帯、Sisterhoodをすごく大切にしたいと思っている。


この一年、おそらく翻訳のクラファンで自己開示して発信しまくったことの反動で、まったくの純粋な自分の言葉を外にしっかりと発信することがものすごく恐ろしくなってしまったようなところがある。それに、コロナ禍では、様々な意見を持つ人がいても、結局似たような意見の人がSNSでは集まり、自分の考えが偏っていても、似たような意見だけど聞いて考えを頑なにするのを今まで以上に起きているのを見ていて何だか疲れてしまったのだと思う。私自身だってまさに自分の意見のエコーチェンバーにいるその一人だから。ただ、対面で話せていたころにあったような意見の違う者同士のもっとゆるやかな意見の交換って、もうありえないのかな?と思って憂鬱にもなる。

何で今、これを今さら書こうと思ったのだろうか。自分の過去の傷もさらしてまで何やってんのかな、とも思うし、正直胃が痛い。

でも。

私がかつて誰かの体験を知ることで、自分の悲しい体験に名前があることを学んだように、誰か一人にでも「それを体験して、悲しんでいるあなたは何にも間違ってない」という言葉が届けばいいな、と思ったのだった。


ようやく、自分の燃え尽きも回復しはじめたようなので、少しずつまた勇気をもって開いて生きたい。






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