KSBBrと二人暮らし #諦める優しさを学びました
この2月から、群馬県の前橋市で83歳の祖母と二人暮らしを始めた。もともと隣県で一人暮らしをしていたのだが、在宅ワークが長くなり家に引きこもって猫としか話さないような生活が続いていた。
あまりにも人と話さないから、面倒なはずの週2のリモート会議が少しずつ楽しみになり、いざ会議で発言しようとするときにしゃべり方を思い出すような感覚に陥るようになった。ちょっとした恐怖だった。「このままではしゃべるための脳細胞がどんどん死んでいくんじゃないか?」何でも大袈裟に考えがちなわたしは、話し相手がほしいと思うようになった。「彼氏がほしいけどできないし、田舎にでも戻ろうか。」
そう。それが二人暮らしを始めた最も大きな理由だ。
周りには「祖母が認知症で一人暮らしなので心配なんです。」と、もっともらしい理由を言っておいた。そうすれば会社の上司も反対しにくいし、わたしは優しい人間だと思われるのでいい事しかない。祖母が認知症なのは本当だし、そのせいで母が苦労し続けているからわたしが来て助かるのも事実。本当に優しい人間と同じ行動をするのだからこのくらいの歪曲は許してほしい。
KSBBr
わたしはおばあちゃん子ではない。ただ、おばあちゃんはわたしを特別可愛がっているのでその感謝みたいなものは感じている。
おばあちゃんはえこひいきを平気でする人で、そのせいで数々のトラブルを引き起こしてきた。わたしはひいきされる方だったが、それで妹から当たられたりして結局良いこと悪い事ひっくるめればプラマイゼロだ。えこひいきをする人は、巡り巡って可愛がった相手からも迷惑がられるのがオチだから、ほんと、子供や孫の中で可愛い子と可愛くない子が分かれてしてしまう人には「注意した方がいいぞ」と忠告したい。
おばあちゃんは認知症関係なく性格が悪い。とにかく自己中心的。そのせいでも数々のトラブルを引き起こしてきた。そしてドケチ。そのせいでも数々のトラブルを引き起こしてきた。おばあちゃんを形容する一番綺麗で一番上品な言葉を探して、綺麗で上品な引出しを全部開けてもそこには "くそババぁ" しか入っていない。
でも唯一おばあちゃんの好きなところがある。それは裏表がないところだ。ほぼ誰にでも本音を隠さないで言いたいことを言う。性格が悪ければ悪いことがまるわかりなのだが、対処法もわかりやすい。こちらも言いたいことを言えばいいのだ。
その孫のわたしもお陰様でまぁまぁ性格が悪いのでくそババぁ同士、相性は悪くない。
本題。やっと成長した孫
わたしはおばあちゃんに期待するのをやめようと決めている。毎日料理をしてほしいとか毎日お風呂に入ってほしいとか、客観的におばあちゃんにとって難しい事はもちろん、仕事中は話しかけないでほしいとか、わたしと暮らしている事くらい覚えていてほしいとか、そういうできて当然な事も期待しない。これは突き放しているのではない。わたしなりの愛情だ。と言うよりわたしの成長だ。
今日の本題は、わたしのこの成長の話。一体何割の人が共感できるのかわからないが、きっと少ないだろうという事はわかる。だって他人に期待しながら生きてくなんて疲れることをやっている人をあまり見ないから。わたしにとっては大きな成長だったけれど、諦めという名の優しさをきっとほとんどの人は早々と会得しているのだ。
数年前までわたしは、家族であれ友達であれ相手に期待し続ける事は自分が相手を大事に思っている証拠だと信じて疑わなかった。出来た方がいい事でできない事があるならできるようになってほしい、もっと上手に生きられるようになってほしい、相手が大事な人であればそう期待し続けるのが優しさだと思っていた。
相手が大事なら大事であるほど、その人の向上を手助けするのが義務だと思っていた。「ありの~♪ままで~♪」とか歌われても、ありのままでわがままだったらその人はこの先嫌われてしまうし、それが本人にとってよくないと想像できるくらいひどいレベルなら「お前、わがままだぞ」と言ってあげるくらいはした方がいいじゃないか、といった具合だ。
でも間違っていたとわかった。と言うより、そう一辺倒にはいかないとわかった。確かに相手が若ければこの考え方はある程度正しいのだと思う。しかし、もう努力しても改善できない年齢、適性というものは確かにあるのだ。
わたしはこの事実を受け入れるのに随分時間がかかった。前の彼氏がいつかもっと自分を理解してくれると願い、期待し続け、10年かかってやっと不可能であるという事実を受け入れた。いや、それが原因で別れたのだから受け入れられたと言えないのかもしれないが、とにかく自分にとっては易しい要求でもできない人が存在するという件だけは承知した。
別にリフティング100回できるようになってほしいと言っているわけじゃない。相対性理論を理解しろと言っているわけじゃない。わたしの話を理解するつもりで聴いてほしい、理解できない場合はわたしの話し方が悪いかもしれないからわかったフリをせずにわからないと言ってほしい、と要求した。
これができないんだってさ。そんなことある?って未だに思うけど実際にできなかったんだからできないんだよね。
一生改善できないという事を受け入れる
わたしにとって、この類の"できない"を承知することは、相手をバカにすることとよく似ている。自分には当たり前にできても相手には一生できないと断定しなくてはいけないから。バカになんてしたくないから期待したくなる。でもやっぱり、一生できないことを要求され続けるのは辛いよね。わたしの事を大事に思ってくれる人ほど期待に応えようとがんばるだろうから、できないときは余計に辛いと思う。だからもうバカにしてでもなんでも、期待しない事が優しい事になるんだ。そうわかった。
おばあちゃんは、嘘は付くし、約束は守れないし、デイサービスが5分以内に迎えに来るって知っててうどんを茹で始めてスタッフさんを待たせてしまう。ホント直してほしい。直してほしい?ダメダメ、そんな風に期待したらおばあちゃんもわたしも不幸になる。どれもこれももう一生改善できないのだから。悔しくても諦めなきゃ。いいよいいよ、どうぞ「ありの~♪ままで~♪」くそババぁでいてください。孫の顔すら忘れたって泣かないでいてあげようじゃないか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?