山ウドの煮物
日曜日にお母さんが山ウドの煮物を作ってくれた。わたしの大好物。豚肉を少し油で炒めてから醤油を入れてウドを煮ただけの料理。本当に単純な料理。なのに美味しく作るのが難しい。まぁ、不味くするのも難しいのだが。
KSBBrと二人暮らしをしいるわたしにはもう一人、父方のおばあちゃんがいた。もう亡くなってしまったがわたしはそのおばあちゃんが大好きだ。可愛くない幼い頃のわたしを可愛がってくれた、数少ない大人の一人。
おばあちゃんは、若い頃はとてもとても働き者だったらしい。わたしは夏休みに会うだけだったけど働き者だと納得できる思い出はある。
おばあちゃんはいつも腰にエプロンを巻いていた。家事をこなすのがものすごく速くて、わたしが朝のラジオ体操に起きる頃には掃除も洗濯も終えていた。そして料理が上手だった。特に煮物が美味しかった。山の方の田舎なので、山菜がよく出てきた。
わたしは幼心に、自分が主婦になるのは無理だと思った。おばあちゃんみたいになるのは不可能だと悟った。
料理上手とは
スーパーに売っているキレイな野菜と美味しく調整された調味料を使って美味しいご飯が作れることは、そりゃ役に立つ能力ではあるけれどおばあちゃんの料理と比べるとほぼ何もできないに等しい。
普通の住宅地で生活してる子供のわたしがスーパーでは見たこともない名前も知らない多種多様な、食べられるかもわからない泥だらけでたまに虫も付いてる食材を、硬い所、苦い所、おいしい所を見極めて下処理し、アクを取り、適切な食べ方の知識があり、さらに美味しい食べ方を研究し、季節には食べ切れないほど採れるものを無駄にしないようご近所に配ったり、干したり、ぬかや塩で漬けて保存し、それらを低コストに短時間でこなす。
わたしにとっては"料理上手"はおばあちゃんが基準だが、そうするとプロ以外で料理上手なんて滅多にいない。自分でとても美味しいおかずが作れて「天才かも!」と思えたときだって、おばあちゃんの足元にも及ばないことは承知している。
ウドの煮物を自分で作るときもある。意外と美味しくできる。おばあちゃんは山からウドを採って来ていたから、成長が速くてすぐに苦く硬くなってしまうウドはきっとわたしが昨今スーパーで手に入れる苦みの程よい柔らかいものより扱いにくかっただろうなと思う。
自分勝手な「長生きしてね」
おばあちゃんとの思い出は足りない。
食事を取って間もないのに、ふかしたお芋やとうもろこしをおやつに作ってくれたおばあちゃん。ガリガリに痩せていたわたしのごはんをびっくりするほど山盛りによそったおばあちゃん。お腹いっぱいでもさらに食べさせようとするおばあちゃん。東北なまりでよく笑うおばあちゃん。頭のいいおばあちゃん。孫たちを可愛がってくれたおばあちゃん。
わたしは愛されたってわかる。
それなのに大学生になったらあんまり会いに行かなくなった。
久しぶりに会って、「長生きしてね」と言ったわたし。少し曇った顔で「そだね」と言ったおばあちゃん。
おばあちゃんの家から帰った後、「なんて無責任な言葉なんだろう」と反省した。長生きしてほしいのは本心だけどわたしは長生きしているおばあちゃんに何をしてあげてるというのだ。会いに行かない。電話もしない。それなのにたまに会ったときだけ「長生きして」なんて。おばあちゃんとわたしの時間はまだこんなに短いのにそれを増やす努力もしないで、忙しいからその時間を保留したいだけの言葉だ。自分勝手な言葉だ。
おばあちゃんはきっとわたしの自分勝手さに気づいていた。
ごめんなさい、おばあちゃん。でも大好きだから、やっぱりもっとずっと生きててほしかった。
ありがとう。おばあちゃん。おばあちゃんから孫の愛し方を教わったよ。まだ子供もいないしできそうにもないけど。
おばあちゃんに教わった料理を母が作りわたしも作れるようになった。ウドを煮ている母を見ていたら、なんだかこの光景がおばあちゃんの生きた証の一つだと思えて無性に会いたくなった。
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