音楽に救われることは、ある。
「音楽に救われた事が何度かある。」
とわたしが言ったら
「音楽で救われるくらいの悩みなら大したことないんじゃない。」
と、真剣なトーンで返してきた人がいる。
がんばって反論したけど「ふ〜ん」って感じだったから、「コイツとは話が合わねぇな」と思った。
「〇〇の曲に救われました!」と熱く言う若者に冷ややかな目を向ける人も少なくないと知っているから、コイツが異常ではないことはわかる。確かに行き過ぎた人はわたしもちょっと怖い。
だけどコイツは世の中にあふれる音楽に触れても、ちゃんと想いの込められた作品かどうかを聴き分けられなかったり、想いを聴き取ろうとしない節があった。音波をナメてる。
コイツは音楽で食べている人間が作る音波が、その人の存在そのものだってわかっていない。音楽家の想いや考え方が音波に乗って伝わってきたときの、会話ともスキンシップとも違う、でもとても距離の近いコミュニケーションが始まる感じがするような、あの経験をコイツは半世紀以上生きてきてしたことがないのだ。そんな経験を十代で重ねて、こじらせて音波の研究家になろうとしたわたしからすると、やっぱりちょっと違う種類の人間というか……コイツとは話が合わねぇなと思う。
TOMOVSKY『自分らしさなんて』
音楽に救われることは、ある。
中学生のわたしは、友達の女の子に比べてブスで暗い自分が大嫌いだった。
「わたしが死んでも誰も損しない。
ブスが一人減って、この世が少しキレイになるメリットすらある。
死んだ方がいいんだ。
でも死にたくはない。
だってわたしは何も悪い事をしてない。
悪いのはわたしなんかを産んだ親だ。
なんでわたしが苦しい思いをして死ななきゃいけないんだ。
もっとかわいい子に生まれたかった。
明るい子に生まれたかった。
自分を辞めたい。
とりあえず、明るいフリをしよう。笑っとこう。
人前では、本当の暗い自分なんて隠しとこう。」
こんな事を本気で思っていたわたしには、トモフスキーの歌詞がグッサリ刺さった。
自分と同じように、自分を辞めたい人がいると知って安心した。
だから何度も何度も口ずさんだ。
僕は 僕を 辞めるんだ
最初は歌詞をそのまま受け取って、自我を消し去るための応援歌だと思っていた。
誰からも好かれない人物を作り出す自我なんて、ない方がいいに決まってる。だからこの応援歌に励まされながら別人になろうとした。
自分らしさなんて 道端に放り投げて
僕は はやく 僕を辞めるんだ
嘘の毎日でも 構わない
でもなぜか歌う度に苦しくて悲しくて仕方なくなる。
学校の帰り道、遠回りをしてわざと人通りの少ない道を歩いた。歌っていると涙が次から次へと増えていって歌えなくなった。
「なんで涙が出るんだろう?メロディが少し切ないから?」
切ない。
切ない?
なんで?
違う自分になれるのは喜ばしい事でしょ?
わたしはわたしを辞めれば幸せになるのに?
なんなら軍歌バリの明るさと強さが似合う歌詞なのに。
きっとトモフスキーの思うつぼだったのだと思う。
歌詞にしがみついたわたし。でも本当にわたしを抱きしめてくれたのは歌詞ではなくて音波だった。
いや、曲全体のからくりか。
歌えば歌うほど、全力で遠ざけたはずの自己愛が近づいて来た。
「本当は自分のいいところだって知ってる!
変えたくなんかない!
なんで誰も気づかないの?
わたしはこんなに面白い人間なのに!
ブスだっていい!暗くたっていい!
勉強好きだし、子供の面倒見させたらみんな楽しませるし、面白い事を思いつくし、
いいとこだってあるじゃん!」
本当は、わたしはわたしを辞めたくはなかった。
大好きな自分と大嫌いな自分が、一人ぼっちで自分の手には負えなくなっていた。
思春期の自我の芽生え。
今思えばそのタイトルがぴったりな悩みだった。誰もが普通に通過する悩みなのかもしれない。”コイツ”の言うように大した悩みではないのかもしれない。だけどわたしにとっては、そのタイトルで整理整頓できないくらいの苦しみだった。
この曲に救われた。
大袈裟でもなんでもなく、救われた。
ただ当時のわたしは、なぜ、どういう理由で自分が救われているのかはわかっていなかった。
よくわからないまま、まるで牽引車にロープで繋がれた壊れた車みたいに、前に進む気力もないのにゆっくりと前進できていた。
トモフスキーは、わたしの抱えている問題を解決してくれたわけじゃない。
「誰からも認められないって辛いもんだよね」
そう同情してくれただけなんだと思う。
わたしにはその同情が必要だった。
もし「わたしも自分を辞めたいんだ」と話しかけてくれる人がいたら、わたしはその人に救われただろうと思う。
そういう人に救われることを想像できるなら、そういう人の代わりに音楽が救いになる事もあると、”コイツ”にもわかりそうなものなのだが。
余談
コイツの正体は、12年間付き合った彼氏だ。結婚も考えた相手。
わたしはコイツにも救われた。
別の原因でコイツとは別れたけど、別れてよかったと思う。
一流ミュージシャンですらできないのに、わたしの稚拙な表現力では想いも願いも愛もコイツには大して届かなかった(歌ったわけではない)。
1対1だと、届かない想いはなかったことになってしまう。それはわたしには耐えられなかった。
まるで自分が”わかる”人間みたいに振舞っていることに、今気付いて急に恥ずかしくなった。わかってないことだってたくさんあるくせにな。
まぁいいか。どうせわたしだし。人の気持ちを100%理解したいと思ったってできやしない。でも、できなくても100%理解したいと思い続けることに価値を置きたい。
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