普通の人は事実と感情を分けて考えることができないらしい
という事実にようやく気付いた話。
客観的に見てものすごい嫌味なことを書いている自覚はあるのだが、自分にとっては悟ったと感じるほどにこれまでの謎がクリアになったので、ここは感情のままに書いてみようと思った次第。
俺は多くの人はこれを”しない”のだと考えていた。しかし、そうではなく”できない”のだということが事実だと最近ようやく腑に落ちたのだ。
自分にとっては息を吸うかのようにできるので、まさかこれができないのだと思いもしなかった。これを人に口走ったら「馬鹿にしてるのか?」と返ってきた。その反応を見て改めて普通の人は事実と感情を分けられないんだなあと納得してしまった。
先に書いた知り合いからの反応。
「普通の人は事実と感情を分けて考えることができないらしい」と聞いて「馬鹿にしてるのか?」という言葉が先に出てくる感覚。これは逆に俺にとっては難しい。俺だったら、「なぜこの人はそう思ったのだろう?」「普通の人の定義ってなんだろう?」「本当に普通の人はそれができないのだろうか?」あたりが真っ先に思い浮かぶ。次点で「もしかしたら言葉通りの意味ではなく、別の意図が裏にあって自分にこの言葉を投げかけているのか?」ときて、「これは”今のお前は事実と感情を分けて考えることができていない”というメッセージか?」になる。ここから無理やり気持ちを盛り上げて飛躍させればワンチャン「もしかして馬鹿にしてる?」までいきつくかもしれない。
経験上「感情的になること」が”悪い”や”愚か”のイメージにつながるというステレオタイプを映画や小説などで学習しているので、この例では「馬鹿にしてるのか?」を導出するのは比較的簡単だったが、デフォルトで事実と感情を分けて考える俺にとっては自然と事実と感情を混在させる思考を理解するのは大変難しい。周りと会話のテンポが合わないとか出てきた結論がズレるという感覚がずっと強かったが、それは周りの人間と思考の仕方が違っていたのが原因だとようやく気付けたのだ。
その気付き自体は中学生の時には明確にはあったが、相手の思考の仕方に合わせて言い方を変えることが出来てしまったのでこれまで大きな支障がなく違和感に気づくのがだいぶ遅れた。俺が超個人主義なこともあり、「そりゃ人が違うんだから思考の仕方も違う」と他人と思考の仕方が違うことに違和感がなかったことの影響も大きい。
確かに俺ほど感情を分けて物事を考えることが出来る人間にリアルではあまりあったことがないが、ネットの世界ではそれが(俺よりよっぽど)出来ているように感じる人が多いので自分がおかしいという感覚はついぞ持たなかった。フィルターバブル的なネットの弊害を感じたところである。
感情がないとかサイコパスみたいなことを言われたこともあったが、いくつか俺のnoteの記事を見れば分かるとおり、自分はそれなりに感情豊かな方であると思っている。寧ろ感情があり過ぎて(特に面倒くさいという感情)怠惰にならないよう気を付けるのが大変なくらいである。
しかし、感情を分けて考えられないというのはすごいというかなんというか大変に不便だなと他人事ながら思うわけだが、当の本人からすればそれが普通なわけでその事実に明確に気づいた今、今後人とどうかかわっていけば良いのか少し分からなくなったところである。
これまでなるべく感情が湧きたつような言い回しをしないようにとプロパガンダの知識やマーケティングの知識を使う(これらは人の感情を煽る方法なので、逆にこれを使わないように気を付ける)ことでうまく対処しようと努力してきたが、そもそも感情を分けて考えられないのであれば効果は薄いのかもしれないと思い始めてきた。寧ろ感情を煽った方が効果的かもしれないとはなかなかに悲劇的な結論だ。人の感情を操作するのはなかなか面白いところがあるので、遊びでやることはあっても仕事ではしないようにしていたが寧ろ仕事でも使った方が結果的にWIN-WINなのかもしれない。
他人を見ていてなんだか生き生きしているなあと感じることが多かったが、感情を分けて考えることができずありのままに行動しているのであれば生き生きと見えるのも納得である。逆に感情を抑え込んで生きている人が苦しそうに見えるのは感情を分けて考えられないが故に無駄にダメージを受けてしまうからなんだなあと納得した次第である。
俺も唯一面倒くさいという感情を分けて考えるのが苦手という意識があるので、この感覚を全ての感情に適用させたと仮定して他人と関わっていけばより人間理解が深まるに違いないと楽しみ半分恐れ半分で今後生きていこうと思う今日この頃である。