『嫌われる勇気』はいらない

『嫌われる勇気』は名著だと思う。元から嫌われても別に良いと考えている俺ですらなぜ嫌われても良いのかある程度理屈立って書かれていたので参考になった。ただ、俺から言わせれば嫌われることに勇気なんて必要ない。勇気ではなく利己心という最もお手軽な感情から嫌われることを厭わないのである。と感じるのでいつものように持論をつらつら書く。


そもそも人から嫌われたくないという人間には前提となる思想がある。それは「他人に助けてもらわないと生きていけない」である。他人に助けてもらう前提の生き方をしているので、いつでも他人に助けてもらえるように人から好かれよう、嫌われたくないと考えるのである。

一方の俺はどういう考えで生きているかというと、「基本的に全部自分でやる」である。最初から全部自分でやる気でいるので他人に助けてもらおうと考えていない。故に他人から好かれようが、嫌われようがどうでもいいと思っている。とはいえ、他人に任せた方が上手くいく場合やリソース的に自分だけではカバーできないという時がある。その場合は必要に応じて人から助けを得ようと考える。

一度整理。嫌われたくない人の思考回路は「生きるためには他人の助けが必要→助けを得られる人になる必要がある→嫌われない人、好かれる人になる」である。俺の思考回路は「基本自分でやる→必要な時に他人に頼る→他人の支援をどう取りつけるかを考える」である。

俺の考え方で生きていると柔軟かつ効率が良い。なぜなら、嫌われたくない人の思考回路は他人から助けを得るという目的は俺と同じなのにも関わらず手段が”常に””皆から”嫌われないようにする。好かれるようにするしかない。一方、俺は必要な時に他人の助けが得られればいいわけだから、常に人から好かれようとする必要はなく、また、その手段も交渉する、脅す、買収する、誘導する、仕組みを利用する、好感度を利用する・・・と多種多用である。

”皆から好かれる”というのは大変困難なので余計疲弊する。また、敵の敵は味方理論もこの考え方だと使えないので不便である。俺の思考回路であれば必要な人を味方につけられればそれ以外は最悪敵に回して良いと考えるので、必要であれば誰かと敵対関係になることで目的の人を味方につけると考えることが出来る。


以上。サクッと俺が嫌われても良いと考える考え方を通して、嫌われる”勇気”が不要な理由を書いてみた。持論に持論を重ねると人から嫌われたくないという考え方で生きている人はそもそもなぜ自分が人から嫌われたくないのかを考える能力が欠如している=目的志向が弱いので生き方全般が下手くそである。

今回の記事を書こうとしたきっかけが人から嫌われないように仕事をしている人が俺に対して相談してきた時の相談の仕方がまどろっこしく(相談を取り付ける目的達成に手間取っている+)、結果としてそいつのことを嫌いになりそうになった(嫌われてもいる)のでこの手のタイプは本当に考え方が下手くそだなと思ったからである。人から嫌われたくないのであれば対象の相手がどんな人を好きになり、嫌うのかを分析し適切なアプローチで接すれば良いのにも関わらず、そういったことは出来ない。なぜ出来ないのかを考えたところ、皆から好かれようとしているが故にリソースが分散し”皆に好かれるような中途半端なアプローチ”しかできないからだと思った。まあ俺に対して特注のアプローチをする必要がないと考えたのかもしれないが、それなら余計に仕事なんだからとドライにたんたんと目的達成のみを目指せば良いのでやはり無駄が多いと感じる。

人から好かれよう、嫌われないようにしようという戦略は運に頼りすぎである。相手が助けてくれるかどうかは相手の性格やその時の調子に大きく左右されるので運である。最初から自分でやると決めておけば、自分が自分を助けるのはある種確定なので運の要素がない。また、単純な確率論として「相手が自分のことを好いてくれて、かつ、助けてくれる」確率と単に「何らかの理由で相手が自分のことを助けてくれる」確率は後者の方が大きい。このような単純な計算だけでも人から好かれようとする戦略は良いとは思えないのだが、本能なのか感情が邪魔するのかそれが出来ないというのは俺としては不思議である。

「人から嫌われない戦略」をとっている人の思考回路のスタートは正しくはある。人は個としては弱い生き物で、人は一人では生きてはいけない。だが、その展開が幼稚である。もっと柔軟に個としての弱さをカバーする方法を考えるべきである(「人から嫌われない戦略」はそういう意味で思考停止できるのがメリットなのかもしれない)。

「人から嫌われない戦略」をとっている人には拝金主義が多い感じる。金が足りない、金がもっと欲しい、お金の不安がつきない、こういうこと言っている人間は総じて「人から嫌われない戦略」もとっていると感じる。人からの好感度を金で買おうや、全ての人から嫌われた時に金でカバーしようという思惑があるのではないか。「何のためにどれくらいの金が必要なのか」が明確であればほとんどの人はそんなに金がいらない(現代は特に)。にもかかわらず多くの人がラットレースを行っている。


俺は考える。日本人に必要なのは嫌われる”勇気”ではなく”目的志向”であると。日本人の悩みの多くは目的志向が欠如していることが原因である。

目的志向がない人間の方が扱いやすいので支配する側にとっては都合が良いなとは感じる。目的志向がない奴は反抗もせずただ耐えるだけなので、ある意味平和に安定する。そういう意味では自分だけはしっかりと目的志向をもって生きようとするのが日本では生きやすいのかもしれない。

ただ、目的志向が強すぎると逆にメンタルが病みやすいかもしれない。目的(理想)がない人はどんなに現実が悲惨でも”しょうがない”や”人生そんなもん”と受け流せてしまうが目的志向が強いとそうはいかない。

日本社会はストレスが多いので日本人は自殺者が多いというニュースを見るが、日本社会以上にストレスが多い社会は他に、もっとたくさんあると思うので日本社会だけが原因とは思えない。俺の仮説では日本人の8割9割は目的志向がかなり弱く思考停止していて、残り1割程度が目的志向をかなり強くもっていると思っている。そして、その1割の多くが自殺していると考えている。他の国はもっとベルカーブ的に目的志向の偏りが分散しているが、日本人はほとんど目的志向がない人と目的志向が強い2極化状態であり、自殺するストレスの閾値を考えた時他国より自殺者が多くなるのではないかと思っている(下のイメージ)。

黒:ベルカーブ 赤:日本

『嫌われる勇気』は名著ではあると思うが、『嫌われる勇気』といった本を読もうとするくらいには思考することが出来て、目的志向を持てる人間には俺のロジックくらい攻めた方が行動に反映できるのかなと思っている。俺の考え方をベースにアドラー心理学の考え方を実践するのが実用的だと自負している。逆に『嫌われる勇気』が有名になり過ぎて普段本を読まないような思考停止人間が『嫌われる勇気』を読んで「好き勝手して良いんだ!」と誤読(そもそもタイトルしか読んでなさそうだが)するのが嫌だなと思っている。

『嫌われる勇気』を読み通せるくらいの人間は”勇気”を持つだけで終わらずより深い思考を持って欲しいし、逆に『嫌われる勇気』をタイトルだけで満足する人間は寧ろ勇気など持たずずっと謙虚に大人しくしていて欲しいなと思う。

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