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エレゲイア・サイクル ~さよなら、ストーリーテラー(フレッド・マイロウに捧ぐ)

 フレッドがベッドの上で仰向けになりながら指を組む自身を見たところで驚くことはない。なぜなら、半年に及ぶ闘病生活が終わったことの安堵が驚きに勝っていたから。フレッドは自身の顔を見る。皺が寄った額、頬も痩せこけている。高い鼻は一層高く見えるが黒ずんでおり、おおよそ健康的には見えなかった。彼は部屋を見渡す。成人し、中年太りがはじまっている四人の子供たちは父親の亡骸を前にして涙を流しながら「信じられない」と繰り返している。フレッドは辛気臭く感じた。病院で病名を告げられ、治療するために必要な金額を用意できないことを理解するなり、彼は薬局で購入できる痛み止めを沢山買った。薬剤師のトム・バラッドウェイはフレッドが新手のドラッグを精製しているのではと考えたが警察に通報することはなかった。バラッドウェイはフレッドとの三〇年に渡る友人関係を維持することと、公徳心を天秤にかけたのだ。
 彼の闘病生活は痛み止めを飲むことだけではあったが、週に四日、勤めていた小学校警備の仕事を辞めた。このことを彼は少し後悔している。彼は自らを見る。正確には水玉模様の寝巻を着た亡骸を。この寝巻は法螺話と妻と子供と孫を愛した者ができる精一杯の冗談のつもりだったが、上手く機能しておらず、哀れですらあった。フレッドは子供たちに別れを告げ、壁をすり抜けてクローゼットに入った。それから、気に入っていた深紅のヌーディスーツに袖を通した。この、アステカ神話の神々が刺繍された派手なヌーディスーツを着て末娘の結婚式に出席しようとした時、妻のジョアンナは猛抗議した。
「これは由緒正しいものなんだ。ヌーディ・コーンが仕立てた本物。彼が手掛けたものはハンク・ウィリアムス、ジョニー・キャッシュ、ジョン・レノン、グラム・パーソンズ、プレスリーも着ている」
「それは白人が着るものよ」
「たしかに、私はカントリー歌手じゃないし、武骨で寡黙なロデオ野郎でもない。でも、私はアメリカーナであることを誇りに思っている。見てくれ。ここには融和的精神が刺繍されている」
「そんな風には見えない」
「ジョアンナ、出会った日の私を思い出してくれ」
「アフロヘアーで、黄色いタートルネックにベルボトム」
「君はどうだったかな?」
「白いタンクトップにジーンズ」
「そうとも。お互いが実にアメリカーナだった。私は自分の流儀を変えたくないんだ」
 ジョアンナがうなずくと、彼はジョアンナを抱きしめ
「私たちは変わらないよ。ずっとね」と言った。ちなみに、末娘の結婚式の際に最も大きな拍手が巻き起こったのはフレッドが姿を見せた時だった。

 頭に白いテンガロンハットをのせたフレッドは笑みを浮かべる。若さや健康を取り戻したというよりも自由であることが嬉しく感じられたから。彼はクローゼットと壁をすり抜けて廊下を歩いた。四〇年前に購入してすっかり傷んだ床を、音を立てずに歩くことは新鮮だった。彼は大袈裟に肩を揺さぶり、脚をくねらせ、踊りながら歩いた。そして、子供たちが幼い頃に何度も注意したこと、階段の手すりに片足を引っ掛けて滑り降りた。居間では孫たちがビデオゲームで遊んでいた。フレッドはテンガロンハットに手をやり、孫たちに向かって別れを告げた。

 トラビュー通りの空はちぎれ雲が点々と漂うだけで、青々としていた。通りの脇に植えられた栗や白樺の木々は風に揺られている。数千、数万と見た風景は毎日、違う顔をしていたというのに、同じ顔だと信じ込んでいたことに気付いたフレッドは薄茶色の頬を掻き、笑みを浮かべた。彼は向かうべき場所について何も知らなかったが、彼を待っている場所については理解していた。彼は昨夜降った雨に濡れ、葉と茎を伸ばす草の匂いを嗅ぎ、歩き出す。彼は思い出す。小人の住み家と言って子供たちと一緒に散策した野原を。野原にできた水たまりを巨人の足跡と言ったことを。ピクニックに出掛けた時、子供たちよりも泥に塗れたフレッドを見たジョアンナがため息をつき「一番、大きい、手のかかる子供」と言ったことを。
 コルビー通りにある教会に向かったのは足が向いたというよりもそうすべきことと感じられたためだった。花に飾られた教会は彼を歓迎していた。灰色の作業着を着た男たちが手際よく花を並べ、時折、口に出す冗談を聞くことは奇妙に感じられた。彼は椅子に腰を下ろし、横になるとテンガロンハットを腹に置いて眠った。痛みや疲労のない幸福は眠気を誘う。
 フレッドが目覚めると、黒服に身を包んだ見覚えのある顔たちが椅子に腰を下ろしていた。子供たち、孫たち、友人たち、名前は忘れてしまったが彼の記憶の一片を共有している知人たち。神妙な面持ちの彼らは棺の前に並び、一人ずつ別れを告げていく。悲しみや空虚さは心を絞めつけなかった。葬儀が終わると、見覚えのある顔の者たちが棺を担いで教会の前に停まっている洋型の霊柩車にのせた。フレッドはふわりと跳び上がり霊柩車に飛び乗った。それから自動車が発進し、風と陽光を全身で感じた。彼は微笑を浮かべ、目を瞑り、空に向かって両手をかざした。
 目を開けた時、眼前に広がるものは闇だった。しかし、冷たさはなかった。彼は自身が前に進んでいるのか、後ろに進んでいるのかもわからなかったが、遥か彼方に光が輝いていることはわかっていた。光は彼が足を向けることなくやってきた。着飾った若者たち、ソウルトレイン・ギャングたち。舞台の上にはアフロヘアーに薄いサングラス、大きなネクタイを締めたドン・コーネリアス、ギターを構えるキャットフィッシュ・コリンズの姿も見えた。舞台の袖から蝶ネクタイを締めたジェームス・ブラウンが「GET DОWN」と叫ぶなり、演奏がはじまった。茫然とするような状況でも、フレッドは何をすべきか理解していた。それは踊ること。卑猥なものではなく、上品で洗練された動き。それでも、腕前を披露しなくてはならない。彼は自身が持てるすべてのものを披露した。一滴も汗を落とさずに。
 ドン・コーネリアスが「愛と平和、そして魂」という言葉を口に出した時、フレッドの肩が掴まれた。彼は振り返った。誰がいるかはわかりきったことだった。それは再び顔を見て、言葉を交わしたいと願っていた最愛の存在。ジョアンナの顔を間近で見る幸運が再びやって来たことをフレッドは神に感謝した。白いタンクトップにジーンズ姿の彼女の身体からはクチナシの匂いが漂っている。フレッドはジョアンナの腰に手をやり、彼女の肩に鼻先を擦りつけた。
「結構、考えたんだ」
「何を?」
「つまり……次に君に会った時、最初に何を言うべきか」
「それで、何を言うつもりだったの?」
「決まらなかった。用意しておくのもおかしいと思ってね」
「あなたはキチンと用意しているタイプじゃない。昔も、今も」
 音と光が軌道から外れていく、だが、二人を別つものは何もない。

 つなぎ姿の男が地面に突き刺したスコップを前にしながら腕を組んでいる。彼のそばには真新しい湿った土が山を築いている。男は首を鳴らし、小さくため息をつくとスコップを掴んで土の山を崩しはじめる。隣にあるジョアンナ・マイロウの墓石に土くれが当たったとして、彼女が不満を述べることはないだろう。



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