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エレゲイア・サイクル ~ライナスへの哀悼

 ハンドルを握るライナスは散髪の仕上げに振りかけられたシェービングトニックに満足している。スペアミント、ライム、バニラ、ラベンダー。それらに火を放ち、一瞬で焼失させたような匂いは彼を安心させ、感傷的にさせる。シャーマン・ウェイの街灯はモダニズム彫刻のように見えた。ひょろ長く、首を垂れた街灯から放出されるオレンジ色をした光。光と呼ぶには弱々しく、記憶からとり出されたまぼろしのようなもの。
 ライナスは縮れた前髪に触れ、前方を眺めた。中央分離帯に延々と植えられたナツメヤシは街灯よりも背が高く、通りにナツメヤシ以上の高さまで成長した建造物は見当たらない。紀元前五〇〇〇年頃にアラビア半島東部、ペルシャ湾岸地域から栽培を開始され、ハンムラビ法典にも条文を刻まれた農民の木が北米大陸のカリフォルニア州ロサンゼルスまで枝葉を伸ばすことになるとは、さすがのハンムラビ王も見通すことができなかっただろう。ライナスはハンドルを切ってヨランダ・アベニューを直進した。細い通りの両側に植えられているのは樹皮が荒々しいイトスギではあるものの、彼の上機嫌を損なうことはない。見晴らしが良く、人気のない通りであってもアクセルを踏み込むことは慎むべきことである。彼は運転免許を取得した際に交付される冊子に目を通したことはないが、そのことについて彼なりに理解している。しかし、彼はそのように振舞わなかった。
 衝撃が走り、高張力鋼鈑の車体が潰れる。そして、一九八〇年にダイムラー・ベンツが高級車のために開発し取得した〈安全はすべてのメーカーが享受すべきである〉という信念に基づいて無償公開された特許が信念に従って移動体のエネルギーをガスの運動エネルギーに変換し、エアバッグを作動する。ライナスはうめき声を上げた。ガソリンの臭いと鉄錆の臭いがシェービングトニックの香りを塗り潰しているという事実が彼の心を曇らせる。彼は小さくなった車内で腕を動かし、汗ばんだ頬を撫でた。肩から腕は冷たく、臍から下は闇に呑まれている。ライナスは手を伸ばすと携帯電話を掴み、拡張九一一に電話する。

─ こちら、九一一。どうしました?
「事故を起こしたんだ……場所は」
─ 落ち着いてください。

 特別法によって通報者の電話番号と位置情報を取得することが許されているオペレータはキーを叩く。そして、データベースに搭載されたマスター・ストリート・アドレスガイドにより、通報者はヨランダ・アベニューにいることが判明する。

─ すぐに救急車が向かいます。そのまま動かないで。
「そうするよ。どうせ、動けないし……そうだ、髪を切ったんだ。アイザイア・ラッシャッドみたいな髪型にした。床屋の香水が好きなんだ。同じものが欲しくて聞こうと思うんだが、いつも忘れる。実はグループセラピーが終わった帰りなんだ。みんなで丸くなって座って、一人ずつ喋る。正直、苦手だ。何を喋ったらいいのかわからない。ジョークの一つでも言ったほうがいいとは思うんだが、そういうことを言う奴がいないから気が引けるよ。それで、おざなりなことを言う。多分、どうでもいいことさ。通うことを決めた理由は複雑だ。離婚したんだ。そんなに複雑でもないな。夜中に家に帰ったら警官が待ち構えていた。女房の顔の半分が紫色になっていた。訳が分からなかったよ。それから、警官がおれを取り押さえて連れて行かれた。女房はおれが殴ったと訴えた。そんなことはしていない。ただ、飲んで帰っただけ。でも、おれはムショにぶち込まれた。愛想を尽かされていることはわかっていたよ。その頃のおれはどうしようもなかったし。とはいえ、そこまでされるなんてね。思いもよらなかった。出所してから、色んなものを失っていることに気が付いた。それで、グループセラピーに通うことにした。人生を立て直したくてね。参加しているみんなはいい奴だよ。和気藹々ってわけじゃないが、言い合いはない。通りで会った時は挨拶して、二言三言喋る。友だちじゃないけど親しみを感じる……こんなこと、聞いて楽しい話じゃないな」
─ 続けてください。
「ありがとう。あんた、名前は?」
─ フローレンスです。
「驚いた、元女房と一緒だ。出身は?」
─ ヒューストンです。
「惜しい。まぁ、そうだろう。そんな偶然、あるはずがないんだから」
─ もう少しで救急車が到着します。頑張って。
「この車は半年前に納車したんだ。それなのに、次の日に部品を盗まれた。保険屋に電話した。すると『どこもかしこも触媒コンバーターを盗まれていて品薄なんです。修理には時間が掛かります』ときた。唖然としたよ。小さな部品が一つないだけで、車が走らないなんて信じられない。先週、ようやく修理が終わったばかりなんだ」
─ 運がなかったですね。
「そう、不運が続いている」
─ 不運の後には幸運がやってきますよ。
「だといいんだがね。グループセラピーでいつか話そうと思っていたことを話すよ。いいかい?」
─ どうぞ。
「おれのおやじは、あまりマトモじゃなかった。とんでもなく酷いわけじゃなかったが、品行方正じゃなかった。ある日、学校から家に帰ったら、おやじが『酒を買ってこい』と言った。それはいつものことで、おれは子供に酒を売ってくれる店を知っていたから、金を受け取って、学校の鞄を持ったまま店に行った。酒瓶を隠さなくちゃならないからね。いつも通り酒を買って、家に帰ると、おやじが裸でうろうろしていた。おやじの胸にある刺青は弛んだ脂肪で笑っているみたいに見えた。おれが酒瓶を渡すと、おやじは機嫌良くバスルームに向かった。それから、おれは自分の部屋に行って、ヘッドフォンをしながら音楽を聴いた。ベートーヴェン……そのCDは叔父さんがくれた。変わった人だったけれど、いい人だった。叔父さん曰く『芸術は隣人を愛しはしないが、隣人を憎むことを休んだ時、人の心に常に開いている穴をその瞬間だけ埋めてくれる』……変わっているだろう? 何度かCDを聴いた。気が付いたら部屋は真っ暗だった。いつもなら、おやじが『さぁ、メシだ』と言う時間だ。おれは部屋を出て、バスルームに行った。バスルームにはマリファナの臭いが充満していた。でも、おやじの姿は見えなかった。どういうことだ? と思って、バスタブを覗いてみると、おやじが溺れ死んでいた」
 オペレータは聞くべきではないものを聞いたと考えている。そして、答えを探しているために沈黙している。ライナスが言う。
「言うべきじゃなかった。やっぱり、グループセラピーで言うべきだった。何度か言おうとしたんだが、変に思われたくなくて言わなかった。フローレンス、聞いてくれてありがとう」 
 彼は咳き込み、苦痛が消え失せた闇の中、掠れた声で笑った。それから、前方で根元から折れたイトスギを眺めながら息を吸い込んだ。鉄錆、オイル、青々した葉、シェービングトニックの匂いが肺を満たし、彼は目を瞑った。

 区画整備が行き届いた地区は上空から見れば象形文字や紋章のように見えるが、それを見ることができるのは人工衛星と星々、遥か彼方、遥か以前に宇宙が急膨張することを許可した〈何か〉である。彼らは冷徹に下界を見下ろし、記録している。ライナス・ガボールが辿って来た道と、すべての人々が辿る道を。


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