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エレゲイア・サイクル ~詩人の帰還

 バックミラーから垂れ下がるドリームキャッチャーが揺れているのはトラックが走行することによって生じた振動によるものだけでなく、ハンドルを握るヘンリー・ボゲの咽頭と肉体から発生した笑いも含まれている。ハンドルを握り、爪先を上下に動かし、ギアチェンジをし、時折クラクションを鳴らすことが北米大陸の至る所を旅することである。このことについてウォルター・ローリー、ジョン・スミス、ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールといったアメリカを探検した者たちは異を唱えるかも知れない。彼らは蚤や虱を潰すように地上を歩いた。そこには未知を既知に変えるという尊大さがあり、巨大な足跡を残すためには同じように巨大な靴を必要とする。幸いなことにボゲが未知を既知に変え、おびただしい血を流すことを強要したことは一度もない。彼は言われるがままに北米大陸を突き進んでいるに過ぎないし、行き先はすべての人々同様、決定されている。しかし、彼の前で揺れ動く鹿革と七面鳥の羽、円形になるまで小さく削られた牛骨。幸福を捕らえる輪、ドリームキャッチャーが口を開け、目の粗い網が揺れ動き続ける限り、網をすり抜けた幸福は北米大陸のあらゆる場所に撒かれていくのだ。
 助手席に座っているジェイク・キニスキーが膝を叩く。傷んだジーンズはならず者というよりも宿無し、ホーボー然としている。麦わら帽子と球形サングラスはジェイクの髪と眼球の延長であり、身を包むアロハシャツは皮膚の延長である。鞄すら持たずにソノラ砂漠沿いをそぞろ歩くジェイクを見たボゲの胸に去来したものは憐れみだった。トラックを停止させ、窓から顔を出したボゲが
「どこに行くつもりだね? お節介を承知で言わせてもらうが、ここから先、しばらくは町がない。あの世まで散歩をしたいのならそれで構わんが」と言うと、ジェイクは手をヒラつかせた。
「乗せてくれるのかい?」
「ここまで言って『それじゃあ、頑張れ』と言うほど人でなしじゃない」
 球形サングラスの縁を撫でたジェイクが
「クレイ・ウォールに行きたいんだ。家がある。家といっても、おれが買ったわけじゃなくて、ステイシーの親父か爺さんが買ったものなんだ。おれの家っていう意味だと、庭にあるインペリアル・ビーチから引っ張って来たトレーラーハウスさ」
「クレイ・ウォールとかいう町なんだな? 聞いたことがないが、どこだ?」
「ヌーベル・フランス」
「カナダか?」
「ミシシッピだよ。沢山、カメがいる。ミシシッピアカミミガメ。頭に赤と黒の印があるんだ。カメはすごいぜ。象を背に載せたってへっちゃら。言うだろう? ザラタン……ゲイリー・スナイダーなら亀の島ってさ」
「ハイなのか?」
 ジェイクは口をすぼめる。
 「いいや。でも、聞いたら途端に口寂しくなってきた」
「荷物は?」
「何も」
「何も持たずにこんなところを歩いていたのか?」
「おかしいかい?」
「かなりおかしい」
「何事も向こうからやって来るんだ。大抵は鳥が運んでくる。ペリカン、白鳥、ハクトウワシ……イーライほどじゃないがね」
 ボゲが「おれはヘンリーだ。イーライじゃない」と言って手招きすると、ジェイクは口笛を吹き助手席側のドアを開けた。

 ジェイクと過ごした数日はボゲにとって忘れ難いものだった。荷下ろしと荷積み、ダイナーでの食事。普段ならば一人で事務的に行うことが色彩に富んでいたし、数日間、狭苦しいトラックの中で寝起きし、共に笑ったことは無二の親友を得たようにも感じられた。

 二〇号線を進み、ミシシッピ州に到達すると、ジェイクが口を開く。
「遠回りさせちまって悪い。ここから先のジャクソンを越えて、ビアンビルの森、ニュートンを越えた先だよ」
 清算の日が到来したことを知ったボゲは咽頭を鳴らす。
「クレイ・ウォールっていうのはどんな町だ?」
「海がなくて、ハッパを吸うと眉を顰められるし、ビデオショップはジャクソンまで行かないとない」
「糞みたいな町だな」
「まぁね。それでも、いい所はあるよ。バーテンダーのトゥーサンは酒を薄めて出すけど、リクエストするとどんな曲でも弾けるピアニストだ。トゥーサンのバンドで歌ったことがある。チューバとトロンボーンとトランペット。ベースはチューバのヴィニーが吹く。ドラムはなし。代わりに両手からスプーンを垂らしたカッティがリズムを刻むんだ。金曜日の夜はトゥーサンの店で騒ぐのがいつもの決まりさ。他にはダイナーのコック、ロバートフェンの燻製は目玉が飛び出しそうなほど美味い。ロバートフェンは狩りをするんだ。狩りに同行したことがあるよ。ホブ、ギュンター、モスカット。狩りをする奴は銃が大好きで、気に食わないと女房や子供を殴って、おまけに酒癖も悪いと思われがちだが、そんなことない。せいぜい、少し迷信深いぐらいさ。夜の森は不思議だよ。音に溢れているのに、ひどく静かに感じる。ロバートフェンが作ったメシを食って、残りは犬にやる。焚火が燃える音と、犬がじぇれつく声。それにおれたちの声も。たったそれだけが加わるだけで夜の森はパーティ会場に変わる。昔、色々あって森にいた時のことを思い出したよ。その時にはなかったものさ」
「色々っていうのはなんだ?」
「愛国心のなせる業さ」
「復員兵か」
「愛国心ってやつも今じゃあどこかに飛んで行ったがね。話を戻すぜ。森を抜けると川が流れている。ブロス川。おかしな名前だ。でも、デカい鱒が釣れる。鱒の背中には虹色の模様がある。信心深い奴なら、世界の地図と呼ぶような模様さ。鱒の背中の模様には同じものが一つもないんだから、これを地図にしても迷うだけだ。一つ面白い話をしよう。興味深いと言ったほうがいいかもな。ある日、近くに住んでいるハーマン爺さんから壁にペンキを塗ってくれと頼まれた。暇だったし、ガレージに白いペンキ缶もあったから二つ返事で引き受けた。ペンキを塗る……トイレットペーターを転がすようなアレをペンキ缶に入れて、たっぷりペンキをつけてから一番奥の壁から横に線を引いた。そこで問題が起きた。ペンキ缶を蹴っ飛ばしちまったんだ。ペンキっていうのは、同じ色を買っても同じ色に仕上がらない。全部、一発でやらなきゃならないんだ。まるで水墨画。どうしたものかと頭を掻いたよ。ふと、壁を見ながら思った。セ・ラ・ヴィ……これは人生みたいなものだとね。人生は一本の線を引くことだ。誰しもが一本の線を引く。線をどこに引いても構わない。交わるものがあるが、永遠に交わらないもののほうがはるかに多いのに、そのことに気付くこともない。おれとヘンリーの線は偶然、交差した。信じられないような確率だろうが、その確率を計算して証明してみようとすると、部屋より大きなコンピュータを用意しなくちゃならない」
「それで、壁はどうした? 粘土でも塗ったのか?」
「そのままにしたよ。ハーマンもそれでいいと言ったし」
「その爺さんも負けず劣らず変わっているな」

 ビアンビルの森を走行中、水草だらけの沼を見たジェイクが口を開く。
「いつも思う。この沼じゃあ、ブラボー小隊も脱出できないだろうってね」「なんの話だ?」
「映画だよ。八一年に公開された『サザン・コンフォート~ブラボー小隊 恐怖の脱出』……それほど有名ってわけじゃない。ルイジアナの州軍が演習中にいざこざを起こす。ルイジアナにはケイジャンって呼ばれるフランス系アメリカ人が住んでいる。ケイジャンは元々、カナダの南東部に住んでいたんだが、イギリス人に出て行けと言われてアメリカに移住した。ケイジャンはフランス語を話す。でも、生活はルイジアナで、やり方は土地に合うように変化している。ルイジアナはクレオールが有名だが、金持ちが多かったクレオールに対して、ケイジャンは貧乏だった。小隊の隊員たちはケイジャンがどういう人間かまるで知らない。野生動物ぐらいにしか見ていない。映画だとケイジャンたちは不気味に描かれているが、そこは作り物だし、演出だからそれでいいかも知れないな。眉に唾をつけるところは多いけど、ケイジャンの生活に注目しているところはいい。地味だし、暗いけどな」
「その小隊はどうなるんだ?」
「それを言うのは反則だぜ」
「わかった、暇があったらビデオを借りる」
 口笛を吹いたジェイクが「グルーヴィ」と言った。

 トラックがニュートンを通り過ぎると、通りに立つ〈ようこそ、クレイ・ウォールへ〉という看板が見えた。ジェイクが「さぁ、我が家だ」と言い、ボゲがため息をつく。丸太組みのモーテル前でジェイクは「停めてくれ」と言った。
「ここが家なのか?」
「いいや、少し歩きたいんだ。旅の最後は歩いたほうが格好がつく。憎まれ者〈オデュッセウス〉だって、最後は歩いたんだからな」
「サッパリわからん」
 ドアを開けたジェイクは身体を独楽のように捩りながら飛び降りる。
「ありがとう、ヘンリー。助かったよ」
「礼を言うのはおれのほうだ。いつも退屈しているからな」
「退屈は毒だぜ。そして、楽しさは猛毒。こうも言う。毒を食らわば皿まで」
 二人は笑い、握手を交わす。ジェイクは手を振り
「ヘンリー、一本の線だ。忘れるなよ」と言ってドアを閉めた。トラックがアスファルトの線上を滑り、消えるまでジェイクは手を振り続けた。トラックが見えなくなると、ジェイクは口笛でローリングストーンズの「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」を吹きながらレイル・ロードを歩き出した。この通りからは鉄道が見えない。南北戦争時には騎馬隊を率い、南軍敗北後にクレイ・ウォールの発展に尽力したジョゼフ・ミッスンが敷いた鉄道は一九六五年に廃線になっているのだから。名誉駅長、郵便長、判事といった複数の肩書を持つミッスンの記録はかつての駅舎、現在はクレイ・ウォール記念館に収められている。州政府から公認されていない記念館は町の人々からのささやかな寄付と公共心、誇りによって維持されている。記念館の最奥にはミッスンを模したブロンズ製の胸像が置かれている。これが隠されていることはクレイ・ウォールに住む人々の心が複雑であることのあらわれである。  

 記念館を通り過ぎたジェイクは信号のない交差点を曲がって二四番通りを進んだ。それから、塗料販売店、保険代理店、ロバートフェンが経営するダイナーの前を通り過ぎた。毎日、ソースの開発に勤しむロバートフェンの挑戦の記録を嗅いだジェイクが鼻を鳴らした。一七番通りにある灰色の壁に横に引かれた白い線を見たジェイクは足を止める。バーネット・ニューマンによる抽象絵画じみた永遠の未完成品を見たジェイクは薄ら笑いを浮かべ、歩き出す。調子が外れた口笛に湿気を含んだ風は非可逆リズムで追走し、旋律を彩る。八番通りを歩き進んだジェイクは背の低い生垣に囲まれた家の敷地に進んだ。庭を敷き詰めるように植えられた芝生、庭の真ん中に無造作に置いた木製のビーチチェアではステイシーがくつろいでいる。短く切ったステイシーの髪はブロンドに染めたばかりであり、玉蜀黍の髭のように見える。タンクトップ、マラソン愛好者が着用するポリエステルのショートパンツを履いたステイシーはハイネケンを一口飲み、瓶を地面に置いた。ジェイクが言う。
「今日は休みかい?」
「仕事に行けと言っている?」
「いいや」
「私にだって休みはある。そもそも、今日は日曜日」
「大抵の奴は休む」
「あなたはいつも休み」
「皮肉かい?」
「えぇ、皮肉。悪い?」
「悪いとは思っているよ。一か月も家を空けたんだし。さぁ、なんとでも言ってくれ」
「最低」
「いいぞ」
「根無し草」
「その通りさ」
「ろくでなし」
「グルーヴィ」
「いつも通りね。そういえば、お友達のクエンティンから電話があった」
「へぇ、なんて言っていた?」
「用件は聞いていない。ただ『引き受けてくれてありがとう』と『早くしてほしい』と言っていた。どういう意味? ひょっとして、お金を借りている? 言っておくけど、トゥーサンのバーみたいなツケはやめて。言われる度に嫌な気分になるんだから」
「月末には耳を揃えて支払っているぜ。ミスター・スポックみたいにね」「尖らせなくていい。知っている? 普通は毎回、帰る時に支払いをするってことを」
「いつもポケットに金がある奴は悪事を働いているんだ」
「悪事じゃなくても、普通に働く人はポケットにお金がある」
「ダイナーズクラブの悪口かい?」
「あなた、自分がクレジットカードの審査に通ると思う? 胸に手を当てて」
「したくなったのかい?」
「私のじゃない。こんな昼間から、それも庭でセックスするほど馬鹿じゃないつもり」
 ジェイクは地面に置かれたハイネケンの瓶を拾い、生ぬるい液体を飲む。「昼間から酒を飲んでいるみたいだけどな」
「皮肉?」
「まぁね」
 ステイシーが伸びをし「私はいつもあなたがどこで何をしているかを聞かない。たとえ、一か月姿を見せなくても。夜の間中、トレーラーハウスで馬鹿みたいに大きな音でマーヴィン・ゲイを聴いたとしてもね」と言うと、ジェイクは手をヒラつかせ
「次の朝、シリアルが盛られた皿を台所から放り投げたけどな」と言った。「投げただけ。悪い?」
「いいや。いい肩をしていると思ったぐらいさ」
「一緒に暮らしているんだから、もう少し腹を割ろうと思わないの?」
「腹を割るのはヒロシ・フジオカに任せているんだ」
「切腹しろなんて言わない。でも、あなたはもう少し、ほんの少し私を尊重するべき」
「一度、おれが店を手伝ったら、二度と来るなと言っただろ?」
「店内放送用のマイクでDJをしてほしくないだけ」
 ジェイクが球形サングラスの縁を撫で
「悪かったと思っているよ。埋め合わせをするから機嫌を直してくれ」と言うと、ステイシーは悪戯っぽい笑みを浮かべた。その笑みはスーパーマーケット、ベケット・ストアの若い経営者、ステイシー・ベケットとしてのものではなく、ガレージでパンクバンドを結成する不良娘然とした不敵なものである。ジェイクが肩を竦め、ステイシーは眉を上下に動かす。
「ママが居間のテレビが映らないと言っている」
「おれはテレビの修理屋じゃないぜ」
「埋め合わせっていうのは嘘だった?」
「すぐに直すよ。修理は得意なんだ。パントゥムからセスティナに跳躍するぐらいにね」
 まばたきをしたステイシーが「それでいい」と言うと、ジェイクはステイシーの細く白い腕を掴んで彼女を立ち上がらせ、口を開く。
「家に入ろうぜ。オデュッセウス〈憎まれ者〉にも仲間がいたんだからな。詩人の帰還ってわけさ」
「いつから詩人になったの?」
「昔からさ。誰しも生きている間に一つか二つの詩を編むからな」
「あなたの詩は?」
 ジェイクは球形サングラスの縁を指でなぞり「まだだよ」と答えてステイシーの腰に手をやる。それから、二人は二階建ての白い家に向かって歩き出した。

 地面に置き去りにされたハイネケンの瓶にこびりついた滴を風が舐めていく。報酬と呼ぶにはあまりにも少なく、儚いものを。


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