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カウチ・ソファより永遠に

 元旦、マーティン・ルーサーキング牧師記念日、大統領の日、戦没者祈念日、奴隷解放記念日、独立記念日、勤労感謝の日、コロンブス記念日、退役軍人の日、感謝祭、クリスマス。すべての祝日が顕現してクリフトン・シアーズの前で膝をついたとしても、彼がこれほど浮かれることはない。静謐な図書館で本の管理と貸出業務を行うシアーズの毎日はすべての人々同様、繰り返されているにせよ、今の彼は最愛の存在であるベアトリーチェに導かれるダンテのようである。熱に浮かれたシアーズは部屋を飾りつけることに心血を注いでいる。壁に掛けたテレビの隣のキャビネットにはホルヘ・ルイス・ボルヘスの『砂の本』をこれみよがしに置き、装丁が気に入って購入したクロード=レヴィ・ストロースの『蜜から灰へ』は数ページで読むことを放棄したにものの、今現在、読んでいることを装うためにしおりを挟んでカウチ・ソファに置いた。
 本来のシアーズはエレクトロニック・アーツの創始者の一人であるトリップ・ホーキンスがゲーム機プラットフォーム開発を目的に開発したスリーディーオー社、正確にはスリーディーオー社からハード製造ライセンスを得た松下電器産業が製造したスリーディーオーの熱狂的ファンである。たとえ、スリーディーオー社が二〇〇三年に連邦破産法第一一章を申請して倒産したにせよ、些末な事実がひたむきな愛を曇らせることはない。彼の最愛の存在は『突撃! アーミーマン~史上最小の作戦』だ。〈戦場にかける鍋〉、〈荒野のプラスチック用心棒〉、〈ソファより永遠に〉、〈深く静かに入浴せよ〉、〈地獄のプラスチック黙示録〉といった戦争映画のパロディは退屈な毎日を繰り返すシアーズに笑いと潤いを与える。なぜ、そのような彼が画面の前以外でこのような行為に及んでいるのか? それは、半年ほど前にソーシャルネットワークサービスで出会った〈恐竜〉を名乗る人物と知り合ったことからはじまる。
 いつものようにシアーズが『突撃! アーミーマン~史上最小の作戦』について長々と魅力を綴っていた時、どこからともなくやってきた〈恐竜〉は「面白い」、「興味深い」、「信じられない」といった短い文章でシアーズの三二ビットの孤独を埋めた。シアーズと〈恐竜〉はあっという間に親しくなった。彼は〈恐竜〉を無二の親友と考えている。そうでなければ、他人のためにフライドチキンやマヨネーズまみれのツナとレタスを白米と海苔で包んだ奇妙な日本食、山羊の糞のような刻み肉がふんだんに載ったピザを買うことなどあり得ないことである。
 テーブルに料理を並べたシアーズは『Dの食卓』のポスターの隣にある時計を見た。それから、〈恐竜〉に向かって話すことを考える。数分、考えた後、話す前に杯を交わすほうが妥当であると判断し、キャビネットにしまった秘宝、映画『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』に登場する聖杯のレプリカを二つとり出してテーブルに置いた。これは奇妙なことである。なぜなら、劇中において聖杯は一つしか登場しないのだから。シアーズは椅子に腰を下ろし、立ち上がり、再び腰を下ろして時計を見た。リチウム電池が内蔵したデジタル時計に乱れはない。乱れているのは彼の心である。
 インターホンが鳴った時、ヨガ行者のように椅子から跳びあがったシアーズはドアに駆け寄り、ドアノブを捻った。その動きは速いが、その速さゆえにかえって時間が引き延ばされたように感じられる。まるで、ビデオゲーム『バイオハザード』のローディングのように。ドアが開いた瞬間、シアーズは声を詰まらせた。目の前に立っているのが襟が大きいグレーのブラウスに黒のハーフパンツ、底が厚いブーツを履いた少女だったから。彼が想定していたのは、一九八〇年代生まれの太った男なのだ。上から下へと視線を動かしたシアーズは、今度は下から上へと視線を動かす。少女の薄桃色に染められた前髪は短いものの、横髪だけが伸ばされている。シアーズがすまなそうに「間違いだよ」と言うと、目の前の中性的な少女が
「リアル・スリーディーオー?」と言った。〈リアル・スリーディーオー〉とは、彼のソーシャルネットワークでの名前であり、これは一九九四年に松下電器産業が発売したスリーディーオー規格機〈スリーディーオー・リアル〉にちなんでいる。シアーズが
「君が〈恐竜〉?」と尋ねると、〈恐竜〉は唇をすぼめる。
「まぁね。でも、インターネットの名前じゃなくて、普通の名前で呼んで」「君の名前はなんていうんだい?」
「レックス。レックス・アンバー」
「Tレックス?」
「綴りが違う。Rじゃなくて、Lのほう。あなたは?」
「クリフトン・シアーズ……クリフと呼んで」というシアーズの声は小さく、曇っている。その声は、本の裏に張られたバーコードを端末で読み込んで貸出業務を行っている時と同じだ。レックスが
「入ってもいい?」と尋ねると、シアーズはうなずいた。たとえ、一九八〇年代生まれの太った男でなくても、レックス・アンバーを名乗る少女が〈恐竜〉であるという事実に間違いはなさそうだから。
 レックスは恐竜というよりも小鳥のような足取りで歩き、料理が並んだテーブルを見た。
「これ、用意してくれたの?」
 シアーズがうなずく。彼の思考は混乱している。十代後半に達しているようにも見えない少女が、彼が築いた理想宮にいるという事実は重い。彼の脳裏には州刑法第三級強姦罪の項が過っている。レックスがポスターを見ながら
「これって『Dの食卓』のポスター? あなたのプレイ動画を何度も観た」と言うと、現実に帰還したシアーズはしどろもどろになりながらうなずいた。レックスが海苔巻きを指差す。
「食べていい?」
「……あぁ」
「いつものあなたなら、ここでハサミを用意するか? と言ってくれると思ったんだけど」
「シザーマンのこと?」
「そう」
「必要ないよ」
 レックスが笑みを浮かべると小ぶりな犬歯が見えた。シアーズにとって、この歯は我が物顔で地上を踏みしめた肉食恐竜のものと同じように感じられる。レックスの
「食べましょうよ」という言葉を号令に二人は椅子に腰を下ろした。そして、食事がはじまる。シアーズが想定していたものは気の置けない親友との止めどないお喋りだったが、部屋に響いているものは紙皿が擦れる音と咀嚼する音だけ。彼はピザを食べているが、雑巾を噛んでいるように感じている。彼は目の前で海苔巻きを口に運ぶ少女に恐怖している。この少女はトルーマン・カポーティの短編小説『ミリアム』のように得体が知れない。染色体の僅かな差が男女を分けているに過ぎないにせよ、その違いはシアーズにとって大きい。ふと、シアーズの脳裏に独房で一人寂しく盆に載ったビーンズスープを啜る囚人の姿が過ぎる。囚人の顔はシアーズである。彼は第三級強姦罪はもちろん、犯罪にも縁遠い。自身を品行方正にして少々の変人であることを理解しているシアーズが息を吐いて立ち上がる。そして、キャビネットの奥にしまった白ワインを掴んだ。レックスが
「私、お酒は飲まない」と言うと、シアーズがうなずき、コルク栓を抜いた。それから、プラスチックのグラスにワインを注いで一気に飲み干した。アルコールに極端に弱いシアーズの視界は上へ、下へ、右へ、左へと動く。まるでコントローラーのように。そして、シアーズが口を開く。言葉は見事なもので、インターネット上で名乗る〈リアル・スリーディーオー〉そのものに変わる。楽しそうな顔でレックスが「面白い」「興味深い」「信じられない」と繰り返す。シアーズの言葉は止まらない。一度止まれば、自身の緑色をしたアーミーマンたちは敗北するのだから。彼は喋るために喋る。そこには示唆や知恵は微塵も含まれていないが、彼は喋らなくてはならない。目の前の少女を愉快にさせるとともに、自らの平穏を守るために。
 食事を終えると、レックスはカウチ・ソファに横になった。彼女は眠たげに目をぱちくりさせている。しかし、リアル・スリーディーオーであり、アーミーマンの頂点であるシアーズは一切の慈悲を捨てて雰囲気を爆撃しなくてはならない。彼は再生専用DVDデッキにディスクを挿入した。そして、画面には一九八七年に公開されたフランス人映画監督、ジャン・ベリベールの『ザ・スモウマン~ゴッズ・アンド・デス』が映る。この映画は奇妙極まる。ロシア人にしか見えない俳優が日本人のスモウマンを演じ、ギリシアや古代の神々、悪魔とレスリング対決をするのだ。スモウマンの相棒は実在したレスリング選手、アド・サンテルの名前をもじったサッド・サンテルである。ロープが張られた土俵の上で展開されるブルーザー・ブロディ風キングコングニードロップ、土俵を囲む空手家たちの瓦割はBGMの代用品として機能している。頭部だけの悪魔たちは真っ赤な目でスモウマンを睨み、悪魔による地上の統治を夢見て手を叩く。スモウマンの張り手が魔を払った時、悪魔と同じように真っ赤な顔をしたシアーズは天井に向かって片手を突き上げる。それと同時に彼は脱力し、床に身を投げた。

 翌朝、冷え切った床で目を覚ましたシアーズは全身を駆け巡る痛みで顔を歪めた。額には湿ったタオルが載せられている。彼はあたりを確認する。そこが刑務所の独房でないことを確信すると立ち上がり、テーブルに転がったワインの空瓶を見た。空瓶を見るなり、頭痛と寒気がやって来たものの、ピザの空箱の上に置かれたメモを見て、彼は勝利を確信する。

〈楽しかった。またね〉

 最後の一文には引っ掛かりを覚えたものの、自身と少女の名誉と肉体を傷つけなかったことが彼を満足させた。その後、シアーズは二日酔いで朦朧とした状態のままカウチ・ソファに寝転がって『蜜から灰へ』を読み始めた。

〈恐竜〉レックス・アンバーが〈リアル・スリーディーオー〉、クリフトン・シアーズの前に再び現れることはなかった。ちなみに、数年後にレックス・アンバーはイタロ・マリネッティの映画『ノミのサーカス』と『地獄のサーキット~激突! 殺人リリーフカー』に出演し、俳優としてのキャリアを充実させていくことになる。シアーズは現在までも『蜜から灰へ』を読み終えていないが、彼の奇行が一人の人間に進むべき道を示したことは飾るだけの本に比べればはるかに重く、尊い。

 

 

 


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