ラフ・ダンサー Ⅹ ~大凍結
七日にしてすべての仕事を終えて以降、誰も到達することのできない場所で暮らす隠遁者が鉄とニッケル、酸素、コバルトから構成される毬に息を吹きかけ、留まることを命じたことの真意を知ることのできる者はおらず、また、どれほどの時間、隠遁者が留まるように命じたかも知ることはできない。
記録的ではあるが、未だ記録されていなかった寒波がやって来たことによって各所で水道管が凍結、破裂からはじまった混乱は州知事に非常事態宣言を発令させるに充分なものだった。通りはおろか、あらゆる建物を平等に染める冷たい塊に抵抗する者は自動車でオフィスに向かう従順なホワイトカラーか、窓ガラスやシャッターを圧し潰されまいとプラスチック製シャベルを手にとる者ぐらいのものだ。自宅に留まる者はテレビを観る。報道組織が操縦する無人航空機は大きなカメラと高価な機材を必要とせず、記者やジャーナリストが現地に直接、足を運ぶことが困難な場合は重宝される。それでも、延々と続く白い密林はエンターテインメント性に乏しいために多くの人々は有料動画配信サービスを視聴するか、新たに契約するために財布からクレジットカードをとり出すことを検討している。
大通りを歩くアイアートが吐く息は綿菓子のよう。彼はホワイトカラーではなく、道徳心から自発的に見回りをしているわけでもない。アイアートは故郷に自身の根を置き捨て、やって来た異国で最大限の自由を満喫しているのであり、それは記録的な寒波も静止することはできない。
通りに立つ雪壁に沿うように歩いていると、ポリタンクやペットボトルを手に一列に並ぶ人々が見えた。アイアートはジーンズのポケットに手を突っ込む。そして、彼らの横を通り過ぎる。道徳心に火が点いた者が彼を侮辱したものの、謝罪はおろか、振り向くことすらせずに歩き進む。怒りはあっという間に冷却される。アイアートは列を見る。人々の長い列は千の頭を持つ〈無際限〉〈永遠〉の蛇、アーディシェーシャのようであるが、そのはじまりはステンレスタンクの給水車である。
「よぅ、色男」という声を聞いたアイアートは足を止める。それから、まばたきを繰り返す。バスタオルを身体に巻きつけて列に並んでいるムムキはマサイの戦士が身にまとうマサイシュカを着ているように見えるが、伝統的な赤色を基にしたチェック柄ではなく、唇が厚い半人半魚が印刷されている。ムムキは歯を鳴らし、言う。
「お帰りかい?」
「まぁな。お前は?」
「姉ちゃんから、アパートの水が出ないから、水をもらってこいと言われたんだ。こんな日に仕事をしたって、何もないっていうのにな」
「姉貴は仕事に行ったのか?」
「来なけりゃクビだと言われているのに行かないのは、おれかお前ぐらいだぜ」
「馬鹿馬鹿しい」
「そう、馬鹿馬鹿しい。こういう日に馬鹿馬鹿しくなった奴はアップルストアを襲うんだ。何かあるとアメリカ人は銃を買うと聞いたことがある。その時は馬鹿言うなと思ったけど、まんざらでもないらしい」
ムムキは冷たい塊の上でサンダル履きの足を踏み鳴らす。目を細めたアイアートが
「こっちまで寒くなる」と言うと、ムムキが笑い、黄ばんだ歯を見せた。
「そうだ、色男。この間、道でマクナウに会ったよ」
「マクナウがどうかしたのか?」
「どうかしていた。三時間立ち話だ」
「仲が良いのは結構だな」
「おれが聞きたいと思っていることだったら、それでいいんだろうがね」
「聞きたくない話だったのか?」
「いい加減、マクナウに言ったほうがいいぜ。あいつ、シルヴァーナにお熱だ」
アイアートは「お熱か。この雪を溶かしてくれるのなら、それもいい」と言って手をヒラつかせた。自らの掌に刻まれたオオカバマダラの刺青を見せつけるように。
薄暗い客席に灯る西洋蝋燭は観客の視線をステージに誘うと共に電気代の節約にも力を貸している。文明はおろか、人類の姿すら見えない時代の海と河口で死んだプランクトンと藻類がバクテリアによって分解されて腐食物質に変化し、地下深くに埋没することで地熱と圧力によってガス分と石油分になる。泥が固まり、剝がれやすい性質の岩石、頁岩を水平掘技術か水圧破砕によってとり出すことは荒野を破壊しているようにしか見えないものの、そこから得られる、見ることのできないエネルギーは膨大である。クラブのオーナーであるジョナサン・カルブレースはそのような破壊行為を反対していない。カルブレースにとって、州を越えた荒野がさらに不毛な地になり、虫けら以下の死骸がどのように利用されたとしてもそのことを不満に思い、抗議することは化学繊維のTシャツを着ながら絵画作品にスプレーを吹きかけることと同じように滑稽なことだ。カルブレースの関心事は観客席が埋まることであり、割高な酒を観客がどれだけ注文するかである。事務室で今日の売り上げを予想するカルブレースは上機嫌だ。無神論に傾くほど強固な意志や思想もないカルブレースは神に感謝している。大凍結によって自宅に釘付けにされた人々が大人しくそのままでいることはないと予想し、給仕係たちを恫喝してクラブを開店させた彼の強欲さは禁酒法時代におけるシカゴのオーナーたちに肩を並べる。カルブレースは軽快に電卓を叩く。その音は南米出身者にとってはメトロノームのように頼りがいのある拍子木、クラベスのようだ。
薄暗いステージに男が立つ。つばが広い柔らかな帽子、円形の白い襞襟、アグリッパ・ドゥビニエが『毒殺された猿』と形容した色のプールポアンと靴下までのゆったりしたズボン。一六世紀の若者のようにドロワを意図的に一部露出しながらも慎み深い米国民としの矜持のために半円形の黒いマントでそれらを覆っていることは奇妙なことである。彼は市民隊として夜警に参加しているわけではないのだから。
「紳士淑女の皆様方」
彼の言葉遣いは観客にとって耳馴染みがなく、滑稽だ。重ね着をしたことで膨らんだ観客たちは歓声を上げる。退屈な現実から逃れるために凍結を越え、やって来た者たちにとって物珍しいもの、おかしな所作、言葉遣いは好奇心を刺激し、追加注文を促す。
「さて、この世には様々な仕事があります。これを一つずつ挙げることはしません。夜が明け、氷が解けてしまうかもしれませんから。これらは一つでは存在しません。医師は病人を必要とし、弁護士は被告人を必要とし、神に仕える者は死者を必要とします。あらゆる仕事は表現と呼べる。表現とは鼻持ちならない学者崩れが自身を慰めるために開発したものではありません。このことで私が思い出すのは、バークリー主教についてです。主教はこのように記しました。〈林檎の味覚は林檎そのものにはなく、また、林檎を食する者の口の中にもない。両者の接触が必要である〉……退屈しのぎに考えたようにも聞こえますが、これは的を射ている。つまり、ショウにはステージが必要です。もちろん、芸人も。ですが、これだけでは不足している。林檎は口を開き、咀嚼し、嚥下されることによって成立するのです。この場合の口を開く者は誰でしょう? 私は口を開いています。それでも不足している。あなたたちも口を動かす必要がある。注文という形で」
観客たちは感嘆の声を上げ、それから給仕係に向かって指を振り、給仕係が忙しなく歩き回りはじめる。灰色のロングコート姿のイアン・マクナウはステージを見つめている。彼は女神の到来を待っている。隣に座るメフル・バシェヴィス・アデルマンは寝ぐせで逆立った黒い髪を撫でている。アデルマンが言う。
「どれぐらい先かはわからないけれど、街を離れるよ。自分に何ができるのか、まったくわからない。でも、できないことを数えることは止めた。不安はある。でも、ぼくたちは移住が得意だから」
ステージの袖から黒いモスリンドレス姿のシルヴァーナがあらわれると、マクナウは手を叩きながら熱を帯びた言葉を投げる。
暗闇に捧げるだけの踊りはなく、襞襟(ラフ)たちの笑いは隠遁者ですら禁じることはできない。たとえ、それが空虚なものであるとしても。
〈THE END〉