見出し画像

巨人の足跡

 開いた窓の近くに立つヴァンは壁に掛かった絵画を見る。キャンバスには競泳水着を着た若い女の後ろ姿が描かれている。彼女は飛び込みをしようとしているように見えるが、背景はヴァンが立っている窓と同じものである。ヴァンは未詳の画家が残した、合わせ鏡の世界に魅了されている。ヴァンは爪が綺麗に切られた指で窓枠をなぞり、指先に付着した黒い滓を親指で落とす。それから、部屋に敷かれた絨毯を踏みしめるように歩き、電子ピアノの前にある四本足の椅子に腰を下ろした。ミカエル・グラス製のウッドベースを構えるエキミアンが
「休憩は終わりか?」と言うと、ヴァンはうなずいた。エキミアンが口笛を吹くと、椅子に座りながら頭を上下に振っていたジャイルズがバスドラムを踏んだ。毛布が詰め込まれたバスドラムは残響が排除されている。ヴァンが指を弾き、速度を伝えるとジャイルズは肩を上下に振った。
「速すぎる」
「そうかな?」
「速く弾きたくなる曲だが、自分の首を絞めるだけだぞ。最初からトレーンみたいにできるわけじゃない」
「トレーンだって、はじめは上手くいかなかったさ。録音のトミー・フラナガンだって」
「トミーは初見だったらしいからな。それじゃあ、仕方がない。その前に整理だ。この曲を分析したか?」
「覚えているよ」
「覚えているのは当たり前だ。そもそも、聴けばわかる」
「耳がいいほうがじゃなくてね」
「この曲の転調は『身も心も』のブリッジがヒントだ。『身も心も』は覚えているか?」
「あんまり」
「すぐに覚えろ。スタンダードだが、トレーンが吹き込んでいる。そのチェンジも覚えるんだ」
「一度のギグで二つのチェンジを使う?」
「誰かがそれを弾いた時に反応するかは気分次第にせよ、『それが何だ』を演奏している時にマイルスと同じフレーズが聴こえたら、嫌でもエヴァンスみたいに弾くだろう?」
「君もポール・チェンバースみたいに弾く?」
「かもな。アルコは真似しないが」
 スネアドラムに肘をついたジャイルズが言う。
「なぁ、お二人さん。話の腰を折って悪いが、目の前の楽器が退屈しているみたいだぜ」
 ヴァンは先程と同じ速度で指を弾くものの、すぐに中断して上下に膝を振った。そして、長三度の転調が一六小節という短いコーラスの中で十回行われる。ヴァンは頭に鳴り響く音と、左手で押さえる和音の響きの違いに眉を顰めながら、機械的な分散和音を弾き続ける。エキミアンは涼しげな顔で一小節に四つの音、主に根音を提供している。ジャイルズがブルガリア出身のドラマーから教わった字余り、字足らずの拍子を刻むと、ヴァンは顔を引きつらせ手を止める。間を置かずにエキミアンが高音を奏で、和音や倍音にないフレーズを紡いで余白を埋める。膝に手を置いたヴァンが首を振ると、エキミアンは手を止め、ジャイルズがタムを叩いてペダルを踏んだ。響きは壁に吸い取られ、残ったものは発散しかねたまま、部屋に充満する熱だけ。エキミアンが不満そうな顔で
「いいところだった」と言うと、ヴァンは顎に手をやり、立ち上がった。ヴァンは頭の中で演奏すべきだったフレーズを繰り返しながら部屋を歩き、窓辺に寄り掛かる。そして、永遠に飛び込むことのない競泳選手の背中を見た。広い肩、隆起した肩甲骨、脚の可動域を広げたことで動きやすさを追求したハイカット。窓の外から
「くたばれ、ミュージシャン!」という怒声を聞いたヴァンは肩を上下させ、口を開く。
「お爺さんから聞いた話をしよう。その話はお爺さんがさらに前のお爺さんから聞いた話で、多分、もっと前のお爺さんの話だ」
 眉間に皺を寄せたエキミアンが
「わかりやすく話してくれ」と言うと、ヴァンは視線を逸らし、壁紙の亀裂を眺めた。
「昔の人の話」
 ジャイルズがスネアドラムのスナッピーを下げる。
「ずっとわかりやすくなった。わかりやすさは大事だもんな」
「昔の人はボストン港にやってくるなり、そのまま西に向かった。ボストンで商売しても上手くいきっこないと思ったんだろうね。西へ、とにかく西へ……地図も持たずに。地図を持っていたとしても白紙なんだから、地図なんて必要ない。ある時、その人が後ろを振り向くと、後ろに人が歩いていることに気付いた。でも、彼は気にせず進んだ。段々と後ろを歩く人は増えていった。気が付くと大勢になっていた。気分が良かったと思う。何事も先頭を歩くのは気持ちがいいからね。それから、彼は西の果て、海に辿り着いた。大陸横断したというわけだ。後ろを歩いていた人たちは彼に礼を言った。でも、彼は残念な気持ちでいっぱいだった。なぜなら、これ以上先がないから。海を越えるのは、もうやったことだしね。彼はカリフォルニアの端に立ち塞がる海を見ながら一生を終えた。こんなことなら、途中で死んだほうがましだったと後悔しながら」
 ウッドベースを抱きしめたエキミアンが
「後悔するようなことじゃない」と言うと、ジャイルズはハイハット・ペダルを踏んだ。眉に触れたヴァンが言う。
「その人は、孫にこう言ったそうだ。『先頭を歩いたとしても、いつかは終わる。大切なことは進むこと、進み続けようとする心だが、それだって萎んでしまう。全部が昔話になる』……ぼくは思うんだ。つまり、大陸には限りがあるけれど、音楽には限りがない。たとえ、弦が四本で、タムとバスが一つでシンバルが二つ、鍵盤が八八しかなくても」
 ジャイルズが笑みを浮かべ、エキミアンは首を傾げる。
「いい話だ。興味深い」
「ありがとう」
「だが、お喋りが上手でも、演奏は別だ」
 手をヒラつかせたヴァンが窓を閉める。その手つきはいささか奇妙なものだが、腱鞘炎を避けるために身に着けたものである。ヴァンが
「それじゃあ、やろうか」と言うと、ジャイルズが口笛を吹き、リムショットを使用した即席の序奏を叩きはじめる。ヴァンは絨毯が敷かれた床を歩き進み、椅子に腰を下ろして鍵盤に指をのせる。それから、弾くべき音、最初に放つべき音を手繰り、黒鍵と白鍵を掴んだ。ヴァンは肩を上下に揺らし、一九五九年において最も困難だったジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』、渦に飛び込んだ。

 

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?