「人魚姫」と「脚」と「声」と「バレリーナ」 (2024年09月08日、Kバレエ『マーメイド』鑑賞後の自己流解説)
Kバレエの新作バレエ、『マーメイド』を2024年9月8日に東京文化会館にて鑑賞しました。ここ数年、頻繁にバレエ鑑賞する機会にめぐまれ、何か書いて見たいと思っていたので、その端緒として本作の自己流解説から始めてみたいと思います。
なお、後半は有料です。有料記事とした理由は
・やみくもに読まれたり拡散されることを目的としたものではない(舞台鑑賞というのは1回かぎりのものなので、最悪記憶が違ってたりするかも知れないし、収拾がつかなくなることを避けたい)
・この随想そのものが、舞台鑑賞から着想を得た、別の「作品」である、と認識している
ことによります。
同時に、本エッセイを読んでいただくことで、バレエ鑑賞をしたことがない人でも見てみたい、取り上げた作品やバレエ団をもっと見てみたい、と思える記事を心がけております。
マーメイド=人形姫。本作は、多くの人が知るデンマークの童話作家、アンデルセンが書いた物語を原作としております。上半身が人間で下半身が魚の生き物(たいていは女性)の伝説は、北欧だけでなく、ヨーロッパ全域、アフリカ、アジアにも流布しているそうです。不思議ですね、どうしてみんな同じことを考えたのか。
アンデルセンの書いた人魚姫は嵐の晩に助けた王子を恋い慕って自分の声と引き換えに人間の姿になるのですが、人魚が人間になる、ということは、尾ひれの下半身を捨てて「脚」を手に入れる、ということです。
「脚」というのは、ただ歩けるということだけでなく、「自分の意思で歩いていける」「自分の力で歩いていける」という、自主独立の象徴で、日常会話でもそのような意味で使われることも多いですよね。
自由度、という点では、実は陸上で脚を使って歩くより、水の中で尾びれを使って泳ぐほうが人間の脚よりももっと早く移動できるし、水の中では上下にも動けるし自由度が高い。でも、脚で歩くほうが、尾ひれで泳ぐより、何か尊いものがあるのです。水の中でなら自由に泳げるマーメイドは、自由に空を飛べるけど歯が乳歯のままのピーターパンと共通するものを感じます。
マーメイドは、水の中で泳げる自由を捨てて、陸上を自分の脚で歩きたいと祈願します。その理由が「あの王子様と結ばれたい」というのが、現代の、「自主独立」といえば経済的や政治信条的、という権利を確保された身から見れば古くさいのですが、でも、この時点でマーメイドは「王子様と結ばれるためには、王子様にも好きになってもらわないといけない」ということも、「脚で歩く世界で自由に生きる、ということは、失敗したり嵌められたりすることも含む」ということも知りません。原作の『人魚姫』の中では、マーメイドは、地面を歩くたびに鋭いナイフの上を歩くような痛みを感じた、と書かれているそうです。自由と独立はこれほどに困難なことなのだ、と最初から暗示されているようですね。
さて、クラシック・バレエで人魚姫の世界を表現する、ということには、大きなハードル、というか矛盾があります。それは、物語の前半は、主人公には「脚がない」のに、クラシック・バレエというのは「脚」を使って、脚が生み出すステップの美しさで表現する芸術だということです。だから、人魚が主人公の映画みたいに、下半身を魚状の作り物で覆ってしまう、なんてことは間違ってもできません。踊る側は日頃鍛錬してきた脚を隠したら演じる意味がなくなってしまうし、鑑賞する側だって全編通してバレリーナの「脚」を見るために劇場に来ているのです! そのような縛りがある中で、この作品では「脚」はどのように使われ、何を表現するのでしょうか。それが、作品鑑賞の際にわたしが抱いていた大きな興味でした。
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