『考える』をわざわざ鍛えなければいけない令和の時代へ
率直に言うと『考える力』が弱ってしまった人が、確実に増えている。
平成の30年少々で、世の中は本当に便利になった。
時刻表を眺めなくても、行き先と時間を入れれば一番効率よく移動できる順路を教えてくれる。
テレビ欄を見ながら録画予約なんかしなくても、キーワードで勝手に予約してくれるし、何より似たようなコンテンツがYoutubeに溢れているから、いつでも見たいものが見られる。
道順なんて考えなくても、カーナビが行き方を教えてくれるし、
電子レンジは温め時間なんて考えなくても勝手に温度を測ってちょうど良い温かさにしてくれる。
例を挙げればキリがないけど、平成の30年で、このように『考える』を外注する手段が無限に登場し、
ただ目の前に現れた選択肢に反応し続ていけば、だいたいの目的が果たせるようになった。
だからこそ、
どっちに進めば良いのか分からない岐路に差し掛かった時、
私はどちらに行けば良いですか?
それは誰が決めてくれるんですか?
と、答え(または選択肢)を提示してもらうことでしか、物事を決定できないようになってしまった。
『考える』という行為は、選択肢からチョイスすること、ではなく、想像を広げ価値を見極め決定すること。つまり選択肢が選択肢として正しいのかどうかすら疑うことにある。
本来、脳が発達した人類だけに与えてもらった(といわれている)考える力も、富と同じように二極化が進んでいる。
選択肢が出てくるまで、自分では何も『考える』ことができない人と、
その人たちに変わって『考える』ことを代行する仕組みを作る人。
ちゃんと意識をしていなければ、考える力は使われなくなり、衰え、その仕組み作りをする人たちに集約されていく。筋肉と同様に使わなければ衰えていく運命であるから、維持したければ鍛えるしかない。
それが、令和の時代なのだろう。