ISHIYA私観「平成ハードコア史」第4章〜#4 ジャパコアの海外進出 PART Ⅱ

 第1章から第3章まで、昭和や平成に起きたことなどついて触れて来たが、平成という時代も西暦2000年をまたぐ頃になると、ハードコアの世界でも様々な出来事があった。
 あまりにも多くの出来事があるために、遅々として書き進める時代が進んで行かないのだが、この第4章では新たに世界に飛び出していった日本のハードコアや、多くの経験を積んだハードコアの人間たちが、どのような変化を遂げていったのかということも含め書き進めて行きたいと思っている。
 海外との交流が進むに連れて、来日バンドも多くなり、日本のハードコアシーンが国際色豊かになっていった時期でもある。
 世界の中の日本のハードコアという観点も、この第4章には登場するだろう。
 他にもまだ書けていないことや、思い出す話もあると思うので、今しばらくお付き合いを願いたい。
 売文稼業なので有料とさせていただくが、連載の励みにもなるので興味のある方は、この第4章も購入していただけると幸いだ。

 第1章、2章と同様、自分が体験したことでもないことで、馴れ馴れしくバンドに知ったかぶりをして話しかけても自己責任なので気をつけることを忠告しておく。
 昭和のハードコア・パンクの先輩たちがそうであったように、一旦中に入れば信じられないほどの優しさを見せてくれる日本のハードコア・パンクの人間たちだが、その壁は厚く高い場合があることを認識してほしい。そうでなくては、このコラムを続けることができなくなるかもしれない。

「#4 ジャパコアの海外進出 PART Ⅱ」

 平成6年である2004年に、PAINTBOXとFORWARDがそれぞれアメリカツアーを敢行した後、様々な日本のハードコアバンドが海外ツアーを行うようになったことは第3章#18 ジャパコアの海外進出でも触れている。
 そのほかにも消毒GIGに出演していたバンドでは、第3章#13で触れたVIVISICKのほかにも、D.S.Bが頻繁に海外ツアーを行なっており、FORWARDがアメリカへ行った際にも様々な話を聞いていた。
 しかしD.S.Bはその後のアメリカツアーで入国拒否に逢ってしまい、アメリカツアーを断念せざるを得なくなってしまう。それが確かFORWARDとWARHEADでアメリカに行った年である2006年だったと思うのだが、同じ頃である2005年には、第1章#19で書いたNightmareもアメリカ入国拒否に逢ってしまい、急遽カナダのみでライブを行うことになる。
 その様子は3月末にロフトブックスから発売予定の雑誌「関西ハードコア」で、俺がインタビューしているので読んでもらいたい。雑誌「関西ハードコア」発売後には、このコラムでも今まで出て来ていない関西のバンドなどにも触れていきたいと思っているので、少々お待ちいただきたい。
 D.S.BやNightmareのアメリカ入国拒否があったが、入国に成功しツアーを行ったバンド達も多く存在する。
 今回はそういったバンドについて触れて行きたい。

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30年以上に渡るバンド活動とモヒカンの髪型も今年で35年目。音楽での表現以外に、日本や海外、様々な場所での演奏経験や、10代から社会をドロップアウトした視点の文章を雑誌やWEBで執筆中。興味があれば是非サポートを!