愛のない無関心の行方 / 2019年11月24日 東洋経済ONLINE(筆者 稲垣栄洋)
様々な衝撃的な殺人事件が起きる昨今、古くは秋葉原の通り魔事件や、最近では川崎市多摩区のスクールバスを待つ小学生を襲った通り魔事件は記憶に新しいところだ。そういった衝撃的な殺人事件に対する反応として、大多数の人間が「極刑が妥当」という死刑を容認している。被害者遺族ではない人間たちは、一方的に被害者への感情移入で、加害者を吊るし上げる。
「もし自分の子どもがそんな目にあったら、犯人が生きていることなど許せない」
「死にたければ一人で死ね。関係のない人間を巻き込むな」
犯人を殺せば、死んだ人間は帰ってくるのだろうか?1人で死ねば”誰もが”死なずに済んだのだろうか?
ハサミムシの母親は、卵を産み孵化した我が子たちを守るため、どんな外敵が来てもハサミを振りかざして敵を威嚇し、最後はまだ餌を取れない我が子たちが飢えて死なぬよう、我が身を食料として差し出し一生を終えるという。
何故多くの人は、愛する我が子が被害者の立場にしかならないと思ってしまうのだろう。「ウチの子に限って」という使い古された昔の常套句は、今でも世の中の意識を支配し続けているようだ。
あなたの愛する子どもが、加害者にならない保証がどこにあるのだろう?あなたが加害者の親にならない保証がどこにあるのだろう?
命がけで産んだ我が子への愛を、親ならば理解できるはずだ。
その愛があれば、一人で死ぬことはないはずだ。
その愛があれば、人を殺すこともないはずだ。
その愛があれば、他人の痛みがわかるはずだ。
愛のない無関心が、この社会で無残な殺人を起こしている。そこに愛があれば、少しずつやりきれない事件が減る社会になるのではないだろうか。
憎しみや怨念で支配されるのではなく、愛へ命をかけて死んでいくハサミムシの母親のように、生物としての本能である「愛」によって人間が支配されるのは、いったいいつになのだろう。
記事
ハサミムシの母の最期はあまりにも壮絶で尊い
生まれてきたわが子にすべてを捧げて逝く